2022年東 京

常盤橋公園〜青淵澁澤榮一の像〜

朝、「アトリウム」から見た行幸通り。


東京駅前から見た行幸通り。


今日は快晴である。

東京駅丸ノ内北口


   院北面にて橋上藤花といふ事をよめる
大夫典侍
色かへぬ松によそへてあづまぢの常盤の橋にかゝる藤波


千代田区大手町に常盤橋公園がある。

御本丸の大手より東の方、本町への出口にして、御門あり。橋の東詰北の方に御高札を建てらる。橋の東詰北の方に,御高札を建てらる。『金葉集』に,「色かへぬ松によそへてあづま路の常盤の橋にかゝる藤波」といへる古歌の意を,松平の御称号にとりまじへ,御代を賀し奉りての号なりといへり。(按ずるに、この橋の旧名を大橋といひ伝ふるは誤なり。慶長十三年の江戸絵図に、今の御本丸の下乗橋を、大橋としるしてあり。同図に、常盤橋をば淺草口橋としるせり。依つて常盤橋の大橋にあらざる事をしるべし。


明治9年(1876年)10月10日、紙幣寮(大蔵省印刷局)竣功。

常盤橋公園は、その跡地である。

常盤橋公園に青淵澁澤榮一の像があった。


昭和30年(1955年)11月、再建。

青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生れたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となつて、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。歸朝後大蔵省に任官して諸制度の改革に當つたが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり、爾来産業經濟の指導育成に任じ關與した會社五百、常に道徳經濟合一主義を唱えて終生之を實踐し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。

また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學日本女子大學等實業及び女子教育の育成、 協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。

翁の歿後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉文夫氏に製作を委嘱し、舊位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。

澁澤青淵記念財団龍門社

中央区日本橋本石町に日本銀行がある。

明治29年(1896年)、建設竣工。辰野金吾の設計である。

写真はうまく撮れない。

東京駅に戻る。

二重橋へ。

2022年東 京〜に戻る