新宿区指定史跡 |
この地は、作家・夏目漱石が明治40年(1907年)9月29日から亡くなる大正5年(1916年)12月9日まで暮らした、通称「漱石山房」の跡地である。 漱石山房は木造平屋建ての和洋折衷の建物で、漱石は洋間二間を書斎・客間として使用した。漱石は『工夫』を皮切りに、『三四郎』『それから』『門』『こころ』『道草』などの代表作をこの地で発表し、『明暗』の連載半ばに胃潰瘍により世を去った。享年49歳。 漱石没後の大正7年(1918年)には、漱石の夫人鏡子がこの土地を購入し、母屋の増改築を行うとともに、漱石が使用していた書斎・客間・回廊を曳家し、保存した。 その後、漱石山房は昭和20年(1945年)5月25日の空襲で焼失し、跡地は昭和25年(1950年)に東京都の所有となった。跡地は長らく都営アパート(昭和52年に区へ譲渡され、区営アパートとなる)の敷地として使用されていたが、昭和51年(1976年)にはその一部に漱石公園が、平成29年(2017年)9月24日には、区営アパートの移転に伴い、全国で初めてとなる本格的な漱石の記念館「新宿区立漱石山房記念館」が開館した。
新宿区教育委員会 |
漱石は慶応3年(1867年)2月9日この近くの江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)に生まれた。明治40年9月にこの地に住み、『三四郎』『それから』『門』『行人』『ここゝろ』『道草』『明暗』などを発表、大正5年(1916年)12月9日、数え年50歳で死去した。 この終焉の「漱石山房」跡地に漱石の胸像を建立し、その偉大な文業を、永遠に称えるものである。 なお、表の漱石の自筆の俳句は「ひとよりも空 語よりも黙 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」 と読む。
新宿区 |
ひとよりも空 語よりも黙 |
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肩に来て人なつかしや赤蜻蛉 |
夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越してきました。そして大正5年12月9日、『明暗』執筆中に49歳で亡くなるまで、多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を「漱石山房」といいます、漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、漱石を囲む文学サロンとして、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。 |
夏目家で飼った動物のうち『我輩は猫である』のモデルとなった「福猫」は、明治41年(1908年)9月13日に亡くなると、裏庭のサクラの木の下にみかん箱に入れて埋葬され、「この下に稲妻起こる宵あらん」という句を添えた2寸角の白木の墓標が建てられた。その後、文鳥も合葬された。犬のヘクトーの墓も近くに建てられ「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という句を添えた。 猫の墓と呼ばれるこの石塔は、福猫の十三回忌にあたる大正9年(1920年)夏目家で飼われた生き物たちを供養するため、漱石の長女・筆子の夫・松岡譲が造らせた九重塔で台石には津田青楓の描いた猫・犬・鳥の三尊像が刻まれていた。しかし昭和20年(1945年)5月25日に空襲で漱石山房が焼失した際に損壊し、現在の石塔はその残欠を利用して昭和28年(1953年)12月9日に再興されたものである。現存する漱石山房の唯一の遺構である。 |
九月十四日。在修善寺。東洋城より電報あり。曰、 センセイノネコガシニタルヨサムカナ トヨ 漱石の猫の訃を伝へたるものなり。返電。 ワガハイノカイミョウナキスゝキカナ |