由来 乃木大将の殉死された大正元年9月 以来幽霊坂が乃木坂と改名された。 |
この公園附近は、江戸時代の初期、青山常陸介忠成が家康の命をうけ、馬を乗り廻して賜った土地で、力尽きて死んだ馬の塚を築き、駒留八幡といったという伝説がある。青山氏の敷地は現在の南北青山および赤坂7、8丁目を含む広大な地域であった。 江戸時代末期このあたりは美濃郡郡上藩青山大膳亮の邸地で、明治維新後この一帯は新坂町と呼ばれ、名士の邸宅街となった。 陸軍大将乃木希典は明治12年この地を買い求め、同35年新築をした。大将は大正元年9月明治天皇のあとを追い、夫人静子とともに自害して果てた。邸宅はその遺言により、東京市に寄付され、整備ののち公園として開園された。現在では、旧乃木邸を含めて区立公園として管理している。 |
東京都港区指定文化財 |
旧乃木邸は、明治35年(1902年)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が大正元年(1912年)9月13日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。将軍が、ドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べ、この邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。建坪は168u、木造平家建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。 馬小屋は、平家建、日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治22年(1889年)に建てられた。間口約12.5m、奥行約4.5mの細長い建物には、4つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ、という評判があったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。
東京都港区教育委員会 |
今に伝えられる「乃木大将と辻占売りの少年」の話は、明治24年、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然、当時8歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。 この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和43年に旧ニッカ池(六本木6丁目)造立されましたが、このたび旧ニッカ池周辺が整備されることとなり、希典所縁のこの地に移建されました。 |
昭和9年(1934年)12月2日、高浜虚子は武蔵野探勝会の東京名所遊覧で乃木大将旧邸へ。高浜年尾・星野立子等同行。 |
「……どうぞずつとお寄り下さい……次のお部屋は大将のお居間でございまして僅に六畳一間でございます……畳の上に御注意下さい……白紙に大将、夫人とありますのが御殉死の時お二人がお坐りになられた位置でございます……左隅の箱の中に保管されてあるのは血に染まつた畳でございます……お部屋の正面にある白い盤は、二人のお子様の戦死された二百三高地の模型で、御日常それを御覧になつて亡きお子方をおしのびなられたさうであります……。」 裏庭の一トかたまりの畑には僅の青菜が残つてをり、松の木下で植木屋が二三人焚火を囲んでゐた。
『武蔵野探勝』(東京名所遊覧) |
武士(もののふ)は 玉も黄金も なにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ |