2008年東 京

深大寺〜碑巡り〜
indexにもどる

天気が良いので、調布市の深大寺に行ってみた。


昌楽院と号す。深大寺邑にあり。(この所も佐須村と云ふ。昔は柏野里と号せしとなり。)太古は法相宗なりしが、恵亮和尚(くわしやう)以来(このかた)天台宗に改む。本尊は宝冠の阿弥陀如来、恵心僧都の作なりといふ。当寺は福満童子の宿願によりて、天平五年癸酉に草創する所の仏域なり。(『日本年代配合鈔』に曰く、天平勝宝二年庚寅深大寺建立云云。四十七代廃帝御宇に勅願所と定められしより、平城・清和両朝も又勅願所となし給ひしと云ふ。


浮岳山昌楽院深大寺


天台宗別格本山である。

 天平5年(733年)の創建で、東京では浅草寺に次いで古い歴史を持つ寺だそうだ。

本堂の左手に中村草田男の句碑があった。


萬緑の中や吾子の歯生え初むる

昭和14年(1939年)に詠まれた句。第二句集『火の島』に収録。

中村草田男の句碑は珍しい。

昭和57年(1982年)2月20日、傘寿を記念して句碑建立、除幕。

昭和57年(1982年)8月28日、草田男は句碑を見ている。

昭和58年(1983年)8月5日、急性肺炎のため82歳で死去。

高浜虚子の句碑


遠山に日の当りたる枯野かな

明治33年(1900年)11月25日、虚子庵例会で詠まれた句。

 平成15年(2003年)5月、『ホトトギス』500号記念として建てられたものだそうだ。

この句の碑は長野県小諸市のチェリーパークラインにもある。

元三大師堂


元三大師堂 (本堂の前、左に傍ひてあり。寺記に云ふ、応和四年慈恵大師叡山に於て自ら彫刻なし給ひし霊像なりしを、慈忍和尚(くわしやう)と恵心僧都と心をひとつにし、武蔵国深大寺は代々の帝勅願の地にして尤も霊跡たり、永くこの影像を還し奉りて関東の群生を化益(けやく)せんとて、正暦二年春こゝに安置なす。爾来(しかりしより)霊応いちじるしく、月毎の三日・十八日、殊に正五九月の十八日には別業護摩供を修行あるが故に、近郷の人群参せり。この日門前に市を立てる。)


 第18代天台座主良源。諡号は慈恵大師。寛和元年正月三日に入寂したので、元三大師という。

昭和5年(1930年)11月、与謝野晶子は深大寺に遊ぶ。

別當の法師に逢はず深大寺おち葉の音を字嶋田屋に聞く

落葉して御堂の池の濁れども噴井(ふきゐ)めでたし門前の茶屋

深大寺時雨れ初めけり釜出でし芋がしらより湯の霧の立ち

釋迦牟尼の堂に上(のぼ)りて一人聞く十一月の水の鳴るおと

「落葉に坐す」

開山堂


 昭和13年(1938年)4月3日、高浜虚子は武蔵野探勝会で深大寺を訪れる。高浜年尾富安風生等同行。

 武蔵野の姿を探るのに最もふさはしいものの一つにこの深大寺の風景がある。呼び名も同じじんだい(神代)村にある。この寺には国宝になつてゐる天平仏が一体ある。別に元三大師を祀つてある一堂がある。

 甲州街道を調布の先で右折し、暫くすると深大寺の指標のあるところを又右折してやがて山門の前に自動車を捨てる。丁度上京した田村木国氏と共にこの武蔵野の土に下り立つと、大阪で常に相見てゐる間柄だけに旅情がはつきり判る。

『武蔵野探勝』(深大寺)

四月三日 武蔵野探勝会。神代村、深大寺

 此行に缺けし人あり花に病む

 鬱々と花暗く人病みにけり


此行に缺けし人」は本田あふひ。

昭和14年(1939年)4月2日、65歳で没。

芽立つもの欅楢などたくましき


   深大寺

梁に駕籠土間に自転車庫裏春日

『松籟』

 昭和13年(1938年)9月17日、北原白秋は深大寺を探勝。

深大寺水多(さは)ならし我が聴くに早や涼しかる滝の音ひびく

むくろじの実のまだあをき庫裏の前もの申すこゑの我はありつつ

深大寺の池、水澄みたらし下照りて紫金の鯉の影行く見れば

御厨子には倚像の仏坐しまして秋さなかなり響くせせらぎ

『黒檜』

 昭和31年(1956年)10月、石田波郷は丹頂会の連衆と深大寺に吟行。

   深大寺

啄みてただ秋陰の烏骨鶏

鵙ひびく深大寺蕎麥冷えにけり

『春嵐』

 昭和35年(1960年)11月5日、石田波郷は『鶴』連衆と深大寺に吟行。

開山堂の奥に石田波郷と星野麥丘人の師弟句碑があった。


吹き起る秋風鶴を歩ましむ
   波郷

『鶴の眼』収録の句。

昭和11年(1936年)、子どもを連れて上野動物園に行った時の作。

昭和44年(1969年)11月21日、石田波郷は56歳で死去。

 平成3年(1991年)11月21日、波郷二十三回忌追善『鶴』550号刊行を記念して建立。

深大寺に石田波郷の墓がある。

草や木や十一月の深大寺
   麥丘人

平成11年(1999年)8月、『鶴』650号を記念して建立。

 星野麦丘人は松江二中教師時代、石田波郷『江東歳時記』散歩の好伴侶であった。

深沙大王堂


この辺りは人も少ない。

深沙大王堂の奥に芭蕉の句碑があった。


象潟やあめに西施が合歓の花

元禄2年(1689年)6月17日、『奥の細道』の旅の象潟で詠まれた句。

昭和45年(1970年)5月10日、句碑建立。

2008年東 京〜に戻る