正平13年(1358年)に新田義貞の子義興が足利基氏を討ち、新田家再興を目指して、従者13人と上野(群馬)より兵を進めた。ところが、多摩川稲田矢口の渡しで、敵の策略とは知らずに、さし向けられた船に乗ってしまう。この時、渡し守りは、かねて仕掛けられた船底の栓を抜き逃げ去った。同時に両岸からは、数百の軍勢が時の声をあげて矢を射掛けた。
兜、よろいの武士たちは身動きがとれない。もはやこれまでと義興は、自害してしまうが、従者たちの中には、対岸まで泳ぎ着き、群がる敵兵と戦い自害して果てる者もあった。その中の一人でもある由良兵庫助が流れついたのが、兵庫島の名の起こりという。
村人たちは、わざわいが起こらないよう供養し、それ以降、不思議なことに、この中州はどんな洪水の時でも、流されることがなかったと伝えられる。
世田谷区 |
昭和59年(1984年)4月、「多摩川八景」選定。
「多摩川八景」は源流から「奥多摩湖」、「御岳渓谷」、「秋川渓谷」、「玉川上水」、「多摩大橋付近の河原」、「二子玉川兵庫島」、「多摩川台公園」、「多摩川の河口」の八景。
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兵庫島公園に若山牧水の歌碑があった。

多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにもおもふ人のあれかし
出典は牧水の第4歌集『路上』。
第4歌集『路上』は明治43年(1910年)1月から同44年5月までの作約500首を収録。明治44年(1911年)9月12日発行。
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他にも多摩川を詠んだ歌が収録されている。
かのをとめ顔の醜し多摩川にわか草つみに行かむとさそふ
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多摩川の浅き流れに石なげてあそべば濡るるわがたもとかな
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春あさく藍もうすらに多摩川のながれてありぬ憂しやひとりは
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かへるさは時雨となりぬ多摩川の川辺の宿に一夜寝しまに
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昭和63年(1988年)3月、建立。
『若山牧水歌碑インデックス』(榎本尚美、榎本篁子著)によれば、全国で153番目の牧水碑である。
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