2022年東 京

一橋門跡〜一橋徳川家屋敷跡〜
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一橋門跡

 一橋門は、徳川家が江戸城に入ったころにはすでに架けられており、大きな丸木が一本架けられただけの橋であったことから、この名がつけられたと言われています。 17世紀中頃には、付近に松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆殿橋と呼ばれたこともありました。なお清水家、田安家と並んで徳川御三卿と称された一橋コ川家の屋敷は元文5年(1740年)から、門内にありました。

 この門の石垣は、ェ永6年(1629年)に築造、明治6年(1873年)に撒去されており、現在では川岸にわずかな高石垣だけが残っています。 現在の橋は、大正14年(1925年)に架けられた関東大震災の復興橋梁の一つで、都内に造られた12のラーメン橋台橋の内、唯一当時の姿を今に残すものです。

千代田区

一橋門


一ツ橋


日本橋川


千代田区大手町1丁目に一橋徳川家屋敷跡があった。


 一橋徳川家は、寛保元年(1741年)、徳川八代将軍吉宗の第四子の宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。

 一橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。

 当家は、二世治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)が十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。

 敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。

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