御城の西、麹町三丁目の南、平河町にあり。別当は天台宗にして、長松山竜眼寺と号け、東叡山に属す。 伝へ云ふ、当社は文明十年戊戌六月廿五日、大田持資当国入間郡川越三芳野の天神を、江戸城に勧請し、数株の梅を栽(う)うると云々(今の御城内平川の梅林坂と唱ふるは、その梅林の旧跡なり。『新安手簡』に、文明中太田道灌築かれたりし江戸城、平川口の中、菅神の社上棟の文に、文明十年戊戌六月廿五日と有之云々。)
『江戸名所図会』(平川天満宮) |
千代田区指定文化財 この銅鳥居は弘化元年(1844年)12月、麹町周辺の人々により建設・奉納されたものです。柱木自体は石製で銅板が巻き付けられています。鳥居を制作したのは、神田鍛冶町に居住した鋳物師(いもじ)の西村和泉守藤原政時です。左右の台座部分に4体の獅子の彫刻がのせてあるなど特徴があります。 左右の柱木には丸く銅板が欠損し、内部の石が露出している部分があります。これは戦時中、空襲の際の機銃掃射によるものです。
千代田区 |
御祭神 菅原朝臣道眞公(学問の神)相殿誉田別命(八幡宮)徳川家康公(東照宮) 御由緒 江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明10年(1478年)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る) 慶長12年(1607年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。 徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。 また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一・蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。 現在も学問特に医学芸能商売繁昌等の信仰厚く合格の祈願等も多い。 |
南支派遣近衛歩兵第一聯隊第八中隊は、平河天満宮の社紋を奉戴し小林茂隊と称し南支那各地を転戦し 勲功を挙げた 終戦五十周年を迎え 生存者及遺族相倚り散華した戦友を慰霊し万世太平を祈念し ここ所縁の地天満宮境内に慰霊碑を建立し禁闕守護の大任に服した近衛兵の名誉と皇室尊崇の誠心を 後世に伝えんとするものである |
昭和14年11月15日近衛歩兵第一聯隊第八中隊動員業務開始同月21日動員完結。11月28日品川駅より勇躍征途に着く。11月30日宇品港出帆。12月7日広東省黄浦港上陸。翌15年に亘り下記の作戦に参加して偉功を挙げた。翁英作戦、賓陽会戦、寧地区警備、欽寧附近掃討作戦、江南作戦、欽寧撤去作戦、中山附近警備。賓陽会戦に於いて近衛混成旅団は軍司令官より感状を授与。昭和15年12月12日広東省唐家出帆。昭和16年1月3日東京芝浦港に上陸帰還。1月13日復員完結。 |
すべて麹町の辺の総名なり。この地は昔より甲州街道にして、その路の傍にありし一里塚を土人甲斐塚と呼びならわせしとなり。或説に貝塚法印といへるが墓なりともいひて、さだかならず。(この地馬場の南は芝の青松寺の旧地なり。南向亭云く、青松寺は青松甲斐といふ人の草創にして、当時玉虫氏の邸にあるを貝塚といふ。上に古碑あり。年月もみえず、平氏女(たひらうぢむすめ)とばかりあり、今は八幡に祀ると云々。また麹町四丁目の南の方、玉虫氏の前なる坂を貝坂とよべり。一説には、この坂の下に甲斐庄氏(かひのしやううぢ)なる宅ありし故ともいへり。
『江戸名所図会』(貝 塚) |
江戸時代、この場所は甲州街道沿いにあたり、そこにあった一里塚が「甲斐塚」と呼ばれていたという説と、貝塚があったことから貝坂と名付けられたという説があります。 |