2022年東 京

東御苑〜桃華楽堂〜

JR上野東京ライン東京駅下車。

東京駅丸ノ内北口


東御苑に向かう。

桜田巽櫓


曇り空なのが残念だ。

桔梗門


桔梗門(内桜田門)

 この門は、江戸城本丸南口の通用門で、本丸へ向かう際には、大手門と並ぶ登城の門でした。門の警備は6〜7万石の譜代大名があたっていました。内桜田門とは、外桜田門(現在の桜田門)に対しての呼称ですが、江戸時代から桔梗門という別称が用いられていました。門は慶長19年(1614年)に造られたもので、桔梗濠沿いの石垣は元和6年(1620年)に造築されています。現在も手前の高麗門と右手の渡櫓門からなる桝形門が残っています。

千代田区

大手門


大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城しました。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっています。大きな方の門は、昭和20年(1945年)4月の空襲で消失し、昭和42年(1967年)に復元されました。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に「明暦三丁酉」(1657年)と刻まれています。この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建時に製作されたものと考えられています。

同心番所


「番所」とは警備詰所のことで、江戸城にあった番所のうち、百人番所、大番所、同心番所の3つが残っています。ここには主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていました。屋根瓦には、皇室の菊の御紋のあるものや徳川家の葵の紋があるものが見られます。

百人番所


江戸城本丸への道を厳重に守る大手中之門に向き合って設けられた警備詰所です。甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組という4組の鉄砲百人組が交代で勤務していました。各組は、20人の与力と、100人の同心で構成されていました。

大番所


大番所は、左の写真に映っている大手中之門の内側に設けられていた警備詰所です。ここには位の高い武士が勤務していました。この番所は、明治期に改築され作業所として使われていましたが、昭和43年(1968年)に江戸時代の姿に復元されました。

左の写真


明治初期の中之門。大番所は、この内側にありました。

桃華楽堂


香淳皇后の還暦を記念して建てられ、香淳皇后のお印の「桃」にちなんで命名された音楽堂で、昭和41年(1968年)に完成しました。屋根はテッセンの花弁を象(かたど)り、八つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれています。

今井兼次の設計である。

紅梅が咲いていた。


梅林坂

この地に最初に城を築いた太田道灌が、このあたりに天神社をまつり、数百株の梅を植えたことから梅林坂の名が付いたといわれています。現在は70本の紅白の梅が植えられおり、12月末から2月まで花が楽しめます。

12年前より20本増えている。

白梅も咲いていた。


御城の西、麹町三丁目の南、平河町にあり。別当は天台宗にして、長松山竜眼寺と号け、東叡山に属す。

伝へ云ふ、当社は文明十年戊戌六月廿五日、大田持資当国入間郡川越三芳野の天神を、江戸城に勧請し、数株の梅を栽(う)うると云々(今の御城内平川の梅林坂と唱ふるは、その梅林の旧跡なり。『新安手簡』に、文明中太田道灌築かれたりし江戸城、平川口の中、菅神の社上棟の文に、文明十年戊戌六月廿五日と有之云々。)

『江戸名所図会』(平川天満宮)

平河門


大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用されていました。大手門と同様、厳重な防御の構造になっています。小さな脇門は、平川濠の中に伸びた、「帯曲輪(おびくるわ)」と呼ばれる細長い渡り堤につながっています。

平河門から東御苑を出る。

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