2022年東 京

日比谷高校〜文学者〜
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山王神社から日比谷高校へ。

日比谷高校正門


 明治11年(1878年)、本郷元町に東京府第一中学創立。神田一ツ橋に移転。

 明治11年(1878年)、幸田露伴尾崎紅葉は東京府第一中学正則科に入学する。

 明治12年(1879年)、夏目漱石は東京府第一中学正則科に入学。

 此の中学というのは、今の完備した中学などとは全然異っていて、その制度も正則と、変則との二つに分れていたのである。

 正則というのは日本語許(ばか)りで、普通学の総(すべ)てを教授されたものであるが、その代り英語は更にやらなかった。変則の方はこれと異って、ただ英語のみを教えるというに止っていた。それで、私は何(ど)れに居たかと云えば、此の正則の方であったから、英語は些(すこ)しも習わなかったのである。英語を修めていぬから、当時の予備門に入ることが六カ敷(むずかし)い。これではつまらぬ、今まで自分の抱いていた、志望が達せられぬことになるから、是非廃(よ)そうという考を起したのであるが、却々(なかなか)親が承知して呉(く)れぬ。そこで、拠(よんどころ)なく毎日々々弁当を吊(つ)るして家は出るが、学校には往かずに、その儘(まま)途中で道草を食って遊んで居た。その中(うち)に、親にも私が学校を退(ひ)きたいという考が解ったのだろう、間もなく正則の方は退くことになったというわけである。

「私の経過した学生時代」

 明治32年(1899年)、東京府中学校と改称、日比谷に移転。

 明治33年(1900年)4月、吉井勇は東京府立第一中学校に入学。

 明治34年(1901年)、谷崎潤一郎は東京府立第一中学校に入学。

 昭和4年(1929年)、日比谷から永田町(旧:村井吉兵衛邸宅)に移転。

日比谷高校の北側にメキシコ大使館がある。


 梁田貞は明治45年(1912年)から昭和24年(1949年)まで、東京府立第一中学校(現:日比谷高校)で教えた。同校合唱祭の「梁田賞」は梁田氏を讃えて制定されたもの。

日比谷高校


教室から国会議事堂が見える高校である。

 昭和21年(1946年)、篠沢秀夫は東京都立第一中学校入学。

 昭和25年(1950年)、東京都立日比谷高等学校と改称。男女共学へ移行。

 昭和28年(1953年)、篠沢秀夫は東京都立日比谷高等学校卒業。

学習院大学で篠沢教授にお会いしたことがある。

平成29年(2017年)10月26日、篠沢教授は肺炎で死去。享年84。

日比谷高校前の新坂(遅刻坂)


新 坂

この道を新坂といいます。『新撰東京名所図会』には「墨西其公使館の南方を、溜池の方に下る坂をいふ」と記載されています。名前の由来は、新しくできた坂ということでその名が付けられています。明治9年(1876年)の地図には道が入っていませんが、明治17年(1884年)参謀本部の図では現在に近い道路が見えています。おそらくそのころできた坂でしょう。また、別の名を遅刻坂とも呼ばれていますが、官庁街に向かう役人、登校を急ぐ学生がカバンをかかえてかけあがる風景から呼ばれたともいいます。

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