此処は、大正9年から昭和元年まであった山形ホテルの跡地である。 永井荷風は、此処から北100米程の処に木造2階建の洋館を建て、『偏奇館』と称した。 25年ほど独居自適の生活を送ったが、昭和20年3月10日の空襲で焼失した。 荷風は其処で「雨瀟瀟・雪解」「ボク(※サンズイ+墨)東綺譚」などの名作を書いている。 荷風の日記「断腸亭日乗」には山形ホテルが登場する。彼は此処を食事、接客のために頻繁に利用した。 当時、山形ホテルの北側は崖となっており、間に小さな谷間を挟んでその対岸に偏奇館が建っていた。 山形ホテルの主人、山形巌の子息が俳優山形勲(大正4年ロンドン生れ、平成8年没)である。 衣笠貞之助監督「地獄門」(昭和28年)、今井正監督「米」(昭和32年)など、代表作は数多い。 永井荷風の研究家である、評論家川本三郎は著書「荷風と東京」(平成8年、都市出版)で、荷風と山形ホテルについて一章を割いている。 昭和47年に麻布パインクレストが当地に竣工した。爾来30年が経過、都心部での住民主導によるマンション建替えの嚆矢として今般麻布市兵衛町ホームズが完成した。
麻布市兵衛町ホームズ住民一同 |
市兵衞町崖上の地所を借る事に决す。建物会社々員永井喜平を招ぎ、其手續萬事を依頼せり。來春を俟ち一廬を結びて隱棲せんと欲す。
『斷腸亭日乘』(大正8年11月13日) |
麻布市兵衛町に地を相し、新に草廬を築き、大正九年庚申の歳五月其の成るを俟つて琴書を移しぬ。時に年四十一なり。 |
小説家永井荷風が、大正9年に木造洋風2階建の偏奇館を新築し、25年ほど独居自適の生活を送りましたが、昭和20年3月10日の空襲で焼失しました。 荷風はここで「雨瀟瀟」「ボク(※サンズイ+墨)東綺譚」などの名作を書いている。 偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが、軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情緒に郷愁をみいだすといった、当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。 |
冀(ねがは)くば来りてわが門を敲(たた)くことなかれ われ一人住むといへど 幾年月の過ぎ来しかた 思い出の夢のかずかず限り知られず
「偏奇館吟章」より |
港区教育委員会 |
天気快晴、夜半空襲あり、翌曉四時わが偏奇館曉亡す、火は初長垂(なだれ)坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり。
『斷腸亭日乘』(昭和20年3月9日) |