千代田区神田錦町の都道301号白山祝田田町線(白山通り)沿いに学士会館がある。 |
三月三十一日。草樹会。学士会館。 人込みの春雨傘にぬれにけり 春雨の自動車の灯のふくれ来る |
京都同志社の創立者新島襄先生は天保14年(1843年)上州安中藩主板倉伊豫守の江戸藩邸に誕生。先生は幕末における国家多難の際、我が国の前途をうれいキリスト教の信仰と海外事情研究を志して21才(1864年)函館より密かに脱国、米国に渡航し新英州キリスト教文化の根本を体得せられた。母国日本の隆盛をはかるためには、単に法律、政治、経済の改革のみによって達せられるものではなく、人民の一人一人が「知識あり品位あり自ら立ち、自ら治め」うるものであり「良心の全身に充満したる丈夫(ますらを)」となることによってその目的を達しうるものであることを痛感せられた。留学10年、明治7年(1874年)帰朝、翌75年11月29日、京都に同志社を建てキリスト教をもって徳育の基本とした教育のためにその生涯を捧げられた。 この碑は新島襄先生生誕100年を記念して建てられたが、神田錦町出身の偉大な先覚者をしのび、この解説板を掲示するものである。 |
当学士会館の所在地は我が国の大學発祥地である。すなわち、明治10年(1877年)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。 創立当所は法学部・理学部・文学部・医学部の4学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられていた。 明治18年(1885年)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治18年までに本郷への移転を完了した。 従って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。 明治19年3月東京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の6分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名づけられた。 更に、明治30年(1897年)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。 爾後明治40年に東北帝国大学、明治44年に九州帝国大学、大正7年に北海道帝国大学、昭和6年に大阪帝国大学、昭和14年に名古屋帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正13年に京城帝国大学、昭和3年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。 昭和22年(1947年)に至って、右の7帝国大学はそれそれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。 明治19年7月創立の学士会は以上の9大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当たっている。
学士会 |
この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。明治5年(1872年)学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843〜1927)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌73年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが「日本の野球の始まり」といわれている。76年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。 ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、71年9月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日、77年7月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。 同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門。第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。 2003年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。 まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。
(財)野球体育博物館 |