天恩山五百羅漢寺は、元禄8年(1695年)鉄眼禅師を開山として江戸本所(現、江東区大島)に創建された黄檗宗の寺でした。当時、境内には「さざい堂(三匝堂)」という建物があり、内部が螺旋階段になっていて、一堂に諸仏像を拝観できると人気を博しました。明治41年(1908年)ここ下目黒の地へ移り、現在は浄土系単立の寺です。 本堂及び回廊に安置されている五百羅漢像等はほとんどが、松雲元慶禅師が各方面から寄進を受け、十余年かけて自ら彫刻したものです。木造釈迦三尊及び五百羅漢像の305体の像(都指定文化財)は、それぞれ姿の違った人間像として巧みに表現されており、しかもこのような大型の像が多量かつ一堂に安置されていることは珍しく、近世彫刻史上注目すべき貴重なものです。 書院屋上にある梵鐘は安永3年(1774年)田中丹波守藤原重行で、他にあまり類例のない特徴を持ち、国の重要美術品の認定を受けています。
目黒区教育委員会 |
苦しさに負けず いつも心あかるく 最善を盡す |
明治41年(1908年)、東京荏原郡目黒町大字下目黒六八一に移転。 |
緑町四丁目羅漢寺の小さき石門を過ぎたれば、一時この寺に移されたる舊五ツ目羅漢寺の事を問はむとせしが、寺僧不在にて得るところなし。江戸名所の五百羅漢は五ツ目より明治二十年頃この緑町に移されしが、後にまた目黒に移されたり。是予の知るところ也。 |
大正8年(1919年)10月9日、永井荷風は目黒不動の帰途、途羅漢寺を訪れた。 |
歸途羅漢寺を訪ひ、道をいそぐに、十六夜の月千代ヶ崎の丘阜より昇るを見る。路傍の草むらには虫の聲盛なり。 |
大正12年(1923年)、関東大震災で羅漢寺大破。 |
明治26年(1893年)、安藤照(のちの妙照)、「お鯉」の名で新橋照近江から雛妓に出る。 昭和13年(1938年)、妙照、羅漢寺住職となる。 昭和23年(1948年)8月14日、妙照は死去。 昭和27年(1952年)、徳川夢声「新作・お鯉物語」を発表。 |
八月二十五日 お鯉観音句碑 盂蘭盆会遠きゆかりとふし拝む
『句日記』(昭和29年) |
盂蘭盆会 遠きゆかりと 伏し拝む |
俳句界の巨匠・高浜虚子(1874−1959)は、安藤妙照禅尼(お鯉さん)と親交があり、しばしば当時寺に足を運びました。 「遠きゆかり」とは、妙照禅尼が「お鯉」の頃、虚子の実兄・池内伸嘉」の舞台で「羽衣」を舞った際、虚子の打った太鼓の掛け声に、思わず間を誤って踏み外したというエピソードのことです。 この句碑は、妙照の七回忌に送られたものです。 |
このあたりいつも ふたりであるいた ところ |
平山蘆江(1882〜1953)は、「都新聞」「読売新聞」の記者をしながら、「西南戦争」「熊本籠城」「煩悩道中記」など、小説・随筆家として活躍しました。 この歌碑は、改祖二代住持・小久江慈雲としぐれ吟社」によって建立され、蘆江の分骨が納められています。 |
昭和20年(1945年)、世界で初めて原爆が広島に投下された。 巡業中だった新劇の名優「丸山定夫」の主宰する移動劇団隊「さくら隊」が被ばくし、団員9名が悲惨な最期を遂げました。 この碑は、旧友たちの死を哀悼し、原爆という非人道的な武器を発明した人類の愚かさに、永遠に抗議するため、昭和27年、徳川夢声によって建てられました。 碑の文字は徳川夢声、台座には亡くなられた9名の名前が刻まれ、碑の裏面には、柳原白蓮の自筆の追悼歌が刻まれています。 |
原爆のみたまに誓ふ 人の世に浄土を たてむみそなはしてよ |
享保9年(1724年)、徳川吉宗は遊獵の折から初めて羅漢寺に渡る。銀子下賜。 享保20年(1735年)、腰掛石の地形でき、吉宗来駕、行水をする。腰掛石、茶屋完成。 |
八代将軍・徳川吉宗は、四代住持・栄朝浄陽のとき、寺地として三千坪を寄進し、桃や桜の木、藤棚を植えて境内の美観を整えるなど、羅漢寺の隆盛に尽力しました。しばしば当寺を訪れ、境内にお茶屋を創り、遊猟の際の御膳所に定めました。 この石は大雄殿(本堂)の右側に、享保20年(1735年)に置かれたもので、吉宗が法問・聴聞するときには、御台石という標が立てられました。 |