来よる那見をも 名にしおへば |
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阿はれと楚 東し古路越 |
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見る 住し所乃 |
土佐泊は、古くから京都と土佐を結ぶ海上交通の要所で、行き帰りの船が寄港していたことから、その名が起こったと伝えられている。 「古今和歌集」の撰者の一人で、三十六歌仙の一人でもある紀貫之は、平安時代の延長8年(930年)から承平5年(935年)にかけて土佐の国司として赴任していた。 貫之は国司の任を終え、今日に帰る道中の55日間を日記風につづった「土佐日記」を著している。この中に、承平5年(935年)、阿波の土佐泊に立ち寄ったことが記されている。貫之はここで |
との歌を残している。 幕末の慶応3年(1867年)に、この歌を刻んだ歌碑が土佐泊の渡船場付近に建てられ、その後、潮明寺境内に移転したが傷みがひどくなり、昭和44年に現在のものに建て替えられた。また、この歌碑とは別に享和年間(1801〜1804)に、黒崎の俳人虎風らによって建てられた歌碑が残っている。 |
東しこ路越住し所の |
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南にしおへはきよ流 |
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浪をも阿はれと楚見る |
この碑がある背後の山は「土佐泊城跡」(市指定史跡)で、古城と新城の二つからなる。古城は標高51.2m、新城は標高80.4mである。北および北東斜面は急傾斜となっており、南および西は海に面している。特に西側は小鳴門海峡に面した良港を持ち、いわゆる海賊城の姿をしている。 戦国時代の土佐泊城には、森筑後守元村・志摩守村春の親子が居城していた事が知られている。天正10年(1582年)に土佐の長宗我部元親が阿波を制圧したときも、森氏は元親に服従せず、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐の際には、阿波進攻の先導をしたと伝えられている。その後、森氏は阿波に入部した蜂須賀氏に帰順して椿泊(阿南市)へ移り、その子孫は阿波水軍の総大将になった。 このように、土佐泊は、海との深い関わりの中で、いにしえの人々が生きた世の移り変わりを物語る史跡が残る地として重要である。 |
かくいひつゝ漕ぎ行く。おもしろき所に船を寄せて「こゝやいづこ」と問ひければ、「土佐のとまり」とぞいひける。昔土佐といひける所に住みける女、この船にまじれりけり。そがいひけらく、「昔しばしありし所の名たぐひにぞあなる。あはれ」といひてよめる歌、 年ごろをすみし所の名にしおへばきよる浪をもあはれとぞ見る
「土佐日記」 |