静岡駅北口駅前広場に徳川家康公像・竹千代君像があるというので、立ち寄ってみた。 |
松平竹千代は8歳から19歳まで、多感な少年時代を今川氏の人質としてこの駿府ですごした。今川義元の軍師雪斎の薫陶をうけるなど、武将としての資質がこのころ培われ、のちの名将徳川家康公の出発点となっている。
撰文 文学博士 小和田哲男 制作 彫刻家 堤 直 美 |
徳川家康は今川氏の人質となっていた少年期、「五カ国時代」といわれた壮年期、「大御所時代」の老年期と、生涯のうち三度駿府に居住していた。この像はその中で、壮年期の姿をあらわしたものである。 家康は同盟者であった織田信長が本能寺の変で討たれる直前、駿河・遠江・三河の三カ国を支配していたが、信長死後、混乱していた甲斐・信濃を征圧して五カ国の大名となった。その後、小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と互角に戦っている。しかし、結局は秀吉に臣従する形となり、天正14年(1586年)、本拠をそれまでの浜松から駿府に移し、五カ国支配に専念することになった。交通路の整美、商工業の振興、新田開発などを推進し、「五カ国検地」「七カ条定書」の制定など、農政にみるべき成果をあげている。この「五カ国時代」の農政の基本が、その後の幕藩制支配に受け継がれているのである。 駿府城の築城にもとりかかり、城下町駿府の町立ても進められたが、天正18年(1590年)の秀吉による小田原攻めの論功行賞で後北条氏遺領関八州へ転封となり、江戸城へ移っていった。 |
平成22年(2010年)12月24日、久能山東照宮は国宝に指定されたそうだ。 |