江戸時代に諸大名が江戸と国元を往復した時の旅館にあてた宿駅の宿泊所を本陣という。掛川宿の本陣は、連雀町の沢野弥三左衛門が寛永の始めから幕末までつとめた。屋敷規模は総坪数457坪余、表間口16間3尺3寸(約31m)あったといわれ、いかに広かったかが偲ばれる。
本陣の建物は、江戸時代に何回か火災にあい、その度に建て替えられた。その位置については、都市改造事業などにより当時の面影を残すものはなく、明確にはわからないが、現在地にあったと思われる。
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明和8年(1771年)4月17日、諸九尼は掛川に泊まっている。
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十七日 昼より雨そぼち降くらしぬ。掛川にとまる。
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享和元年(1801年)3月3日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で掛川を通りがかる。
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掛川の城にいれば、家ごとに葛布うるもの多し。此城いにしへ今川氏真のこもれる城也とぞ。今の執政太田備中守殿 資愛 の城なり。
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文化2年(1805年)11月13日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で掛川宿に入る。
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掛川の宿にいれば十九首町、下俟町、西町、分中王町などいへる札かきて、町々の柱におしたり。江戸の城下の町の名をかけるにならへるなるべし。城門木戸にいれば西町、中町、連着町、二藤町、鹽町、木戸を出て新町あり。
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嘉永4年(1851年)4月1日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、掛川に泊まる。
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袋井に抵り、餐を傳ふ。懸川に宿す。太田攝津守の居る所なり。袋井・懸川の間、木柱を樹つ、書して曰く、「松平美作守知行所」と。申時、久留米侯懸川驛を過ぎて西上す。
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