霊湯「走り湯」を掌り、開運擁護の霊神として名高い伊豆山権現は、走湯大権現とも称する男体神と女体神の夫婦神である。その神前に夫婦で参詣し、莫大な利生を戴いた代表的人物に、鎌倉将軍源頼朝と北條政子がいる。 とりわけ政子にとり、伊豆山は頼朝への誠の愛を貫き夫のために祈り続けた聖なる地であった。『吾妻鏡』には、それを政子自身が頼朝に向かって語る場面がある。それは、囚われの身となった静御前が、鶴岡八幡宮の神前で「しづやしづ…」と義経を慕う歌を詠じ舞を舞ったときのこと。静御前の行為に激怒した頼朝を、政子はその場で次のように語って諫めた。「あなたがまだ流人として伊豆の国にいらっしゃったころ、あなたとの契りを知った父(北条時政)は、平家を怖れ、わたくしを閉じ込めてしまいました。でも、わたくしは闇夜を抜け出して、雨風を凌ぎつつあなたの元へ参りました。石橋山の合戦の時には、伊豆山でひとりあなたを思い、生きた心地がしませんでした。あのころの私の愁いと、いまの静御前の心は同じです!」 政子の語る「愛の逃避行」は、真名本『蘇我物語』に詳しい。それによると、闇夜をさまよい伊豆山に逃れた政子は、頼朝に文を使わして喜びの再会を果たした。二人はそろって精進潔斎し、伊豆山権現に詣で祈願を立てる。政子は頼朝にも増して熱心に、夫の宿願が叶うよう祈りを捧げた。その甲斐あって、やがて権現から、未来において頼朝は日本国の大将軍となり、政子も頼朝の後を継ぎ後家として日本国を知行するという夢告を授かる。 この頼朝と政子の「逃避行」は、実は伊豆山権現への参詣と深く結びついた出来事であった。頼朝を慕う政子の心が、伊豆山参詣という縁(えにし)をつくり出し、二人で心をこめた祈願を立てたからこそ、ともに大いなる功徳を得ることができたのである。鎌倉時代に伊豆山権現の由緒を著した『走湯山縁起』には、伊豆山に参詣するものはだれでも、一切の災いからまぬがれ、福徳を得て極楽往生が叶うと約束されている。 頼朝と政子は伊豆山権現を介して、箱根権現や三島大明神、さらには富士の神々の加護を得て、夫婦二人三脚で東国の地からあらたな歴史を切り開いた。二人にとって伊豆山は、まさしく新たな時代への「出発の地」であった。そして頼朝の亡きあとは、政子は落髪して出家し、夢告の通り「尼将軍」ととなって、頼朝が築いた幕府の礎を支え続けた。 伊豆山神社には、政子が頼朝の一周忌の供養のため、自らの髪を編み込んだ法華曼荼羅が、いまも残されている。
文 阿部美香 |
走湯山參詣の時 わたつ海のなかに向ひて出る湯のいづのお山とむべもいひけり 走り湯の~とはむべぞいひけらし速き效(しる)しのあればなりけり 伊豆の國や山の南に出る湯のはやきは神のしるしなりけり |
走湯山に詣でてよみ侍りける歌の中に 伊豆の國山の南にいづる湯の早きは神のしるしなりけり |
戦国時代末期、焼き討ちといえば織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちが有名ですが、伊豆権現も天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原攻めの際、小田原の北条氏に味方したために豊臣秀吉の焼き討ちに合い、大勢の僧兵が命を落とすと共に伊豆山全山が3日3晩燃え続けたといわれています。 |