當山は海光山佛現寺と号し、日蓮聖人の開山なされた寺です。聖人は困難救護の為「立正安国論」を鎌倉幕府に奏上した事が北条執権の怒にふれるところとなり、弘長元年(1261年)5月12日、御年40歳、伊東に配流の身となられた。たまたま地頭八郎左衛門が奇病にかかり、祈祷により治されたことから起死回生の御礼に同家の重宝海中出現の立像釈迦佛を贈られた。この尊像は聖人生涯の随身佛となされ、海が光り佛が現れた由縁から山号を聖人御自身が命されております。 |
貞亨3年(1686年)、大淀三千風は佛現寺の事を書いている。 |
○彼赤君を沈し松が枝の渕、日蓮聖人滴(たく)所、佛現寺、けさかけ松のむかしとりあつめ、伊藤の記長編せし。略す。 |
仏現寺の本堂前の木立の中に高さ2.5メートル・横4メートルに及ぶ大きな句碑がある。どちらが表だか裏だかわからないが両面に句が刻まれている。これは、日蓮上人の徳を讃えようとした広瀬奇壁という人が、友人の荻原井泉水とはかって、日蓮ゆかりのこの寺に建てたものと言う。建てたのは昭和11年であったが、27年に境内の一部を東小学校用地として譲った時、現在地に移された。 奇壁の句は「蜂巣華八紘に大聖妙法の光」で、題額の「如是」は海軍中将小笠原長生の書いたものである。 井泉水の句は「裏はまつ山の夏の雨はれてゆく雲」である。河東碧梧桐とともに、俳句の新傾向運動に身を投じて、俳誌「層雲」によって自由律俳句を推進した井泉水らしく定型にとらわれない自由律の俳句である。 この「層雲」の有力な同人で、自由律俳句で名高い遍歴の俳人山頭火が、昭和11年の春にこの地を旅して、数日間滞在し、「伊豆はあたたかく死ぬるによろしい波音」「湯の町通りぬける春風」「はるばるときて伊豆の山なみ夕焼くる」などの句を残している。泊まったのは和田湯近くの商人宿伊東屋であったが、今はそれを偲ぶよすがになるものは何も無い。和田湯にそのことを記した説明板がある。
伊東市役所観光経済部観光課『史跡と文学散歩』
昭和11年(1936年)4月17日、種田山頭火は藤沢より茅ヶ崎、熱海を経て徒歩で伊東へ。20日、下田へ出立する。 |
佛現寺の梵鐘は明暦2年(1656年)4月の鋳造で、永く親しまれておりましたが、たまたま大東亜戦争の折に供出せしめられ悲しい思いで送りました。 |
新しき國につくさむむつみあひ |
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ともにはたらき共に榮えて | 千葉胤明 |
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とどろきて消えゆく鐘に明けくれの |
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こころ寄すらむ伊豆の国人 | 窪田空穂 |
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寝ねたりておもひ空しき暁の |
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こころにひびく大寺のかね | 尾上八郎 |
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初日のほる一天四海やはらきの |
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春来れりと初日はのほる | 佐々木信綱 |
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朝夕に打つ鐘の音は天ひびき |
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地ひびき永遠にひびきわたらむ | 斎藤茂吉 |
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三世の佛みな座にあれば寒からず | 高浜虚子 |
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山寺や撞きそこなひの鐘霞む | 高浜虚子 |
「三世の佛」は、大正2年(1913年)1月19日、鎌倉虚子庵の句会で詠まれた句。 「山寺や」は、蕪村の句。『題苑集』収録。年代不詳。 |