ことさらに濱名の橋の上をのみ一人わたるにあらねどもわれ
『白桜集』(尾参詠草) |
種田山頭火(1882〜1940) 大正・昭和の初期の俳人。 明治15年山口県に生まれる。本名は正一。荻原井泉水に師事。俳誌『層雲』に俳句を発表。大正13年、仏門に入る。尾崎放哉に傾倒、妻子を捨て庵を結び、一笠一杖の乞食行脚で各地を遍歴、禅味ある自由律の独自の句を残した。 この作品は、二度目の遠州路を旅した昭和14年4月、当時の浜名街道を直截に詠んだものである。句集『草木塔』に所載。
新居町教育委員会 |
昭和14年(1939年)4月23日、種田山頭火は東海道を歩いて新居関跡へ。25日、浜名街道を歩く。 |
白須賀公園、潮見坂の眺望、こゝで折君が自身をも入れて撮影する。 大(ママ)平洋の壮観、そこでちよつと昼寝する。 新井まで徒歩、新井関阯(ママ)。 |
建久元年(1190年)10月18日、源頼朝は上洛の途上で梶原景時と連歌を詠んでいる。 |
橋本の駅に於いて遊女等群参す。繁多の贈物有りと。これに先だち御連歌有り。 橋もとの君にはなにかわたすへき たヽそまかはのくれてすぎはや 平景時 |
新居宿 | 地震及び津波などの災害によって、宿の位置は二度変わっている。 |
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宿には新居の関所と渡船場があり数百艘の船を有していた。 |
東海道を歩いて体力アップ |
正徳5年(1715年)冬、田中千梅は白須賀から新居に至る。 |
明れは濱名橋本の里。弓手ハ遠江灘、馬手は高師山。栄華暫時ノ事と打眺め行ば、波澄テ鴈影深といふ荒居に至る。 冬雁の胸を居たる海の青 |
明和元年(1764年)8月、多賀庵風律は東国行脚の途上新居の渡しを渡る。 |
濱名の橋ハ只名のミなりさて荒井の渡し也代々神楽五六人乘合て舟賃に神楽舞する此日濱枩にとまるあるしの心たのもしき也 九の夜とおもハン菊に草枕 |
安永9年(1780年)4月25日、五升庵蝶夢は浜松の永田白輅と共に舞阪から舟で新居の関所に渡った。 |
天明6年(1786年)、蝶夢は新居の関のことを書いている。 |
海べたに門いかめしく釘ぬきせしは、新居の関の戸也。橋本は浜名のはしもとにて、むかしは海道の中にても、ことに遊びの多かりし所ぞ。 |
享和元年(1801年)3月4日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で「荒井の御関所」を過ぎる。 |
むかひに人家のごときものみゆるは、荒井の御関所也などきくもたのもしく、とかくするまに、はやむかひの河原につく。こゝにて従者をもめしぐして、輿より下り、御関所の前をすぐ。 |
文化2年(1805年)11月12日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中新居宿で休憩した。 |
十二日天氣よし。卯の時の比鹽見坂を下るに、道くらうして見えず、辰の時ばかりに新井の宿にいこひて、酒のみむなぎとりめす。此所の名品なりといへど、あづまのかたの味にくらぶべくもあらず。關守の下役鱸氏平吉來りて書をこふ。 |
嘉永4年(1851年)3月29日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、吉田発って新居で食事をとる。 |
一、二十九日 晴。寅の半ばに吉田を發し、二川に抵りて始めて朝となる。白潟に抵りて始めて富岳を望む。道の右に大東洋を望み、荒井に抵りてソン(※「歹」+「食」)を傳ふ。 |
嘉永6年(1853年)9月24日、吉田松陰は長崎に赴く途中で袋井から荒井に泊まる。 |
二十四日 晴。袋井を發して、荒井に宿す。 |