渋沢栄一(1840〜1931年)は、日本近代の実業家。天保11年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に渋沢市郎右衛門、母えいの長男として生まれた。幼名は市三郎。のちに、栄次郎、栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗り、青淵と号した。家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方で、父から学問の手解きを受け、その後従兄弟の尾高惇忠(あつただ)から四書五経、『日本外史』などを学んだ。安政5年(1858年)惇忠の妹千代と結婚。文久元年(1861年)、江戸に出て海保漁村に入門した。また千葉道場に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶなかで尊皇攘夷に傾倒し、やがて高崎城乗っ取りなどの統幕計画をたてた。しかし、惇忠の弟長七郎の説得により中止し、自身は勘当を受けた体裁を取って上京した。 やがて一橋家家臣平岡円四郎からの推挙を受けると、一転して一橋慶喜に仕え家政改革に実力を発揮した。慶応2年(1866年)、慶喜の十五代将軍就任に従って栄一も幕臣となった。翌年、パリで開催された万国博博覧会に将軍の名代として出席する民部公子(後の徳川昭武)の渡欧に随行し、欧州諸国では先進の思想、科学技術、社会情勢を見聞した。明治維新となって帰国すると、間もなく明治政府に招かれ、民部・大蔵省では財務政策に取り組んだ。明治6年(1873年)に大蔵省を辞すると、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の総監役(のちの頭取)に就任した。特に『論語』を通じた経営哲学「道徳経済合一説」の考えを基に、「近代日本の資本主義的経営の確立と指導に邁進し、生涯に約500もの企業の設立・育成に関わり、「近代日本の経済の父」とも称される。 また600もの社会事業やや文化事業、民間外交にも積極的に参画しており、近代日本における功績は計り知れない。 区内にもそうした活動の場があり、現在までその記憶が継承されているものも多い。 本墓所の成り立ちは、区の歴史を考える上でも重要であることから、令和3年(2021年)3月に台東区史蹟として台東区区民文化財台帳に登録された。
台東区教育委員会 |
徳川慶喜(1837〜1913)は水戸藩主徳川斉昭の第7子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見職として徳川家茂を補佐しました。慶応2年(1866年)、第十五代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868年)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。 駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898年)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年(1902年)には公爵を授爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913年)11月22日に77歳で没しました。 お墓は、間口3.6m。奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上には葺石円墳状を成しています。
東京都教育委員会 |
徳川慶喜公薨去 鐘冴ゆる第六天をもどりけり |
從一位勲一等公爵徳川慶喜公ハ水戸藩主徳川斉昭卿ノ第七子トシテ天保八年九月二十九日生レ弘化四年一橋徳川家を相續シ慶應二年征夷大將軍ノ宣下ヲ蒙ル時恰モ幕末維新ノ動亂ニ會シ内ニハ尊王攘夷ノ論ノ大イニ沸騰スルアリ外ニハ歐米列強ノ競ウテ隙ヲ窺フアリ内憂外患天下騒然タルニ方リ公ハ世界ノ大勢ヲ洞察シ國情ノ趣クトコロヲ看破シ二百六十五年ノ幕府政權ヲ朝廷ニ奉還シテ天皇親政ノ大本ヲ復原シ以テ日本近代國家發展ノ端緒ヲ啓クコレ實ニ公ノ叡智英斷ノ致ストコロニシテソノ功績赫灼トシテ萬世ヲ照ラストイフベシ維新ノ後公ハ野ニ下リテ閑雲野鶴ヲ樂シマレシガ天恩優渥篤ク勲功ヲ嘉賞アラセラレ特ニ一家ヲ創立シテ榮爵ヲ賜ハル大正二年十一月二十二日薨去セラル壽七十七茲ニ明治百年祭ニアタリ公ノ偉徳ヲ追慕シ碑ヲ建テテ謹ミテ顯彰ノ誠意ヲ捧グ
徳川慶喜公事蹟顯彰會 |