芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と武の神・猿田彦命をまつる。人々の信仰厚く、関東大震災のころまでは、祭りの日ともなると、未明から深夜まで参拝の人でにぎわったという。芸能の神として、歌舞伎、新劇などの芸能人の信仰を集め、名のある役者がたびたび参拝に訪れた。
なお、この神社はもとは貧乏神といわれた黒闇天女(弁財天の姉)をまつっていたが、江戸のころ、この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、福の神として庶民の信仰を集めるようになったという伝説が残っている。
合祀の高木神社は、旧・第六天町(現・小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である第六天社を、道路拡張に伴い、ここに移したものである。
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−郷土愛をはぐくむ文化財−
文京区教育委員会
北野神社社殿

天明元年(1781年)、太田南畝は牛天神に参詣している。
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江戸川をこえ、りうけうばしをわたり、すは町を北に泉松山にのぼり、牛天神のみまへにぬかづく。かたへに一つの石のほこらあり。苔むして戸ぼそなし。白駒がいふ、これ貧ぐう(窮)をまつる、よく人を禍福す。むかし小日向のほとりにすめる人、家の内の貧を逐ふとて、窮鬼のかたちをつくりて、此ところにまつれるなり。
「日ぐらしのにき」 |
文化4年(1809年)3月21日、小林一茶は秋元双樹と江戸市中の寺社を参詣。牛天神も訪れた。
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廿一日 晴 双樹と方々遊参。湯島円満寺木食寺也。補陀殿ト有。イゝ蔵横丁天満宮、牛天神、波切不動、法化(華)山伏、小石川伝通院。
『文化句帖』(文化4年3月) |
境内に中島歌子の歌碑があった。

雪中竹
ゆきのうちに根ざしかためて若竹の
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生ひ出むとしの光をぞ思ふ
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北野神社・中島歌子歌碑
北野神社は江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は、菅原道真公である。
縁起によると、寿永元年(1182年)源頼朝が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ、風波のしずまるのを待った。夢中に菅神(道真公)が現われて、2つの吉事があると伝えた。お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び、元暦元年(1184年)ここに社殿を造営したという。また、夢さめて菅神の立っていた跡に牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)
境内の南側に中島歌子(1844〜1903)の歌碑がある。歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主である。
門下には、梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など、上流中流層の婦人1,000余人がいた。樋口一葉・三宅花圃らはその門弟である。
歌碑は歌子の死後、明治42年(1909年)に門下生によって建てられた。
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雪中竹
ゆきのうちに根ざしかためて若竹の
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生ひ出むとしの光をぞ思ふ
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大正6年(1917年)正月14日、若山牧水は新年短歌会の後30数名を率いて牛天神を訪れ記念撮影をしたそうだ。
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昭和19年(1944年)9月21日、永井荷風は牛天神附近を漫歩。
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秋陰漫歩によし。小石川牛天神附近の地理を知る必要あり三時頃家を出でゝ赴き見たり。砲兵工廠の構内むかしとは全くちがひたれば從つて其裏手なるなか町の様子も今は全く舊觀を存せず。西岸寺日限の不動に賽し電車通に出で大門町の陋巷を過ぎ金富町を歩む。余の生れし家の門には永田甚之助といふ札かゝげられ、裏隣の昔田尻子爵の邸には東方社の札下げられたり。もと來し道をたどり安藤坂に出で、牛天神の境内を見て後、表の石段を降るに安藤坂の下民家取拂はれ、諏訪神社の社殿のみ空地の上に取殘されたり。諏訪町の民家半分ほど取壞されたり。
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萩の舎跡へ。
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