下 町〜荒 川〜
月見寺(本行寺)〜一茶の句碑〜
陽炎や道潅どのの物見塚
西日暮里3丁目と台東区谷中7丁目の境を七面坂から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。 当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたいたことがうかがえる。 天保9年(1838年)刊の「妙めを奇談」は寛永(1624〜44)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。
荒川区教育委員会 |
同所北の通りにあり。日蓮宗にして開山は日玄上人、大永六年に草創す。往古(むかし)は太田道灌の建立なりといへり。当寺庭中に道灌斥候塚(ものみづか)と称するものあり。 |
もとの道にかへりて、紙くふひつじのさがりに、本行精舎にいたる。とぼそをたゝいてあないすれば、上人よろこびむかへものして、廬山の禁もけふばかりはと、何くれともてなし給ふ。をのをのふところにせし木のみなどさゝげつ。やゝありて東面の障子おしひらけば、物見塚凸に、筑波山凹なり。田の面田の字のごとく、人家人の字をならべ、けむりなゝめに霧横たはり、空あかるく地くろし。
「日ぐらしのにき」 |
本行寺は、大永6年(1526年)、江戸城内平川口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永6年(1709年)、現在地に移転した。景勝の地であったことから、通称「月見寺」ともよばれていた。二十世日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の露をさかなやひとり酒」などの句を詠んでいる。 |
青い田の露を肴やひとり酒
『文政句帖』(文政6年6月) |
刀禰の帆が寝ても見ゆるぞ青田原 | 一茶 |
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菜の花としりつゝのむやつるべから | 一瓢 |
本行寺泊 刀禰の帆が寝ても見ゆるぞ青田原
『文政句帖』(文政7年6月) |
文政7年、一茶は江戸にいなかった。文化元年(1816年)5月10日、流山で詠んだ句に「刀禰川は寝ても見ゆるぞ夏木立」がある。 |
菜の花と知りつゝ呑や釣瓶から |
戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750年)建碑の道灌丘碑のみ残る。
荒川区教育委員会 |
本行寺道くわん物見塚 凡(おほよそ)に三百年の菫かな |
廿九日 巳刻ヨリ雨止。本行寺ニ入ル。 陽炎[や]道灌どのゝ物見塚
『七番日記』(文化8年正月) |
文化8年(1808年)3月には本行寺で「夕空や蚊が鳴出してうつくしき」と詠んでいる。 明治39年(1906年)4月15日、『新声』の誌友大会が花見寺で開催された。 |
昭和11年(1936年)4月5日、山頭火は鎌倉から東京へ。 |
品川へ着いてまずそこの水を飲んだ、東京の水である、電車に乗つた、東京の空である、十三年ぶりに東京へ来たのだ。 |
昭和11年(1936年)1月18日、高浜虚子は星野立子と本行寺へ。 |
一月十八日。谷中本行寺。播磨屋一門、水竹居、たけし、立子、秀好。 渋引きしごと喉強し寒稽古 凍土の日あたりゆるむところかな |
一月十八日。谷中、本行寺へ。吉右衛門さんによばれ て私も父と一緒に出かける。古風な感じのいゝお寺であ る。吉右衛門さんは一人娘の正子さんに風邪を引かれて は大変と思つて外へ出さない。御自分も大変部厚に着物 をきてゐられるらしい。私はまづ出かけることにして日 の当つた玄関の広い踏台に下り立つ。一瓢といふ俳人が 此のお寺にゐて一茶も尋ねてきたことがあつたとかきく。 しばらく寺内を歩いて句を作つた。 墓道となり凍土のもの深く 凍土の上ほかほかとかわきをり 白壁によりかゝつて立つてゐると、 足に射す冬日たのしみをりにけり 本当に暖かだ。正子さんをよんであげようかと考へた が、そのまゝ長いこと其処に立つてゐた。 |