下 町台東区
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上野東照宮〜碑巡り〜

上野公園に上野東照宮がある。

上野東照宮の大鳥居


寛永10年(1633年)4月17日、酒井雅楽頭忠世寄進。

享保19年(1734年)12月17日、酒井雅楽頭忠知再建。

参 道


 東照宮に詣でゝ金碧の美しきを見る。

   古杉や三百年の風薫る

 ひしひしと並ぶ石燈籠敷き列ねたる石疊いづれも昔の權の形見にぞありける。

   神前の鳥居を上る毛蟲かな


五重塔


国指定重要文化財である。

旧東叡山寛永寺五重塔(旧東照宮五重塔)

寛永8年(1631年)土井利勝により上野東照宮(寛永4年(1627年)創建)の一部として五重塔が建立、寄進されました。寛永16年(1639年)火災により焼失、甲良宗広らにより同年再建されたのが現存する五重塔です。以前、この場所には五重塔への参道がありました。ですから五重塔の正面は今ご覧になっている面です。

明治時代に神仏分離令が発令され、五重塔は仏教施設であることから全国の神社所有の五重塔は多くが破壊されました。当宮の五重塔も取り壊しの対象となりましたが、美しい姿を何としてでも残したいと考えた当時の宮司は熟慮を重ね、五重塔を手放すこととし、塔は寛永寺の所属であると国に申し出ました。東照宮五重塔は寛永寺五重塔と名前を変えましたが、その機転により取り壊しは免れました。

寛永寺の所属となったものの、寺からは距離があり管理が難しいことから昭和33年(1958年)東京都に寄付されました。現在は動物園の敷地内にございます。

塔の高さは約32m、江戸時代の多くの五重塔が初層から第4層までを和風、最上層のみを唐様風とするのに対し、この塔は、全層が和風様式です。

建物内部には心柱が塔の土台の上にしっかりと建てられ、塔の頂上にある青銅製の相輪まで貫いています。心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造が江戸時代の五重塔に多く見られるのに対し、この塔は土台にしっかりと建てられた桃山時代建築の五重塔に良く見られた構造で建てられています。

屋根は初層から第4層が本瓦葺、最上層は銅瓦葺を使用しています。

初層上方には十二支の彫刻が、各層の軒下の角隅部には4頭ずつ龍の彫刻が配されています。

関東大震災でも倒壊せず、戊辰戦争や第2次大戦でも焼失を免れた、江戸初期の建築様式を伝える優れた建築の1つとして、明治44年(1911年)国の重要文化財に指定されました。

以前塔の初層内部には心柱を大日如来に見たて、それを中心にして東寺大仏師職法眼康猶の作と伝えられる弥勒・薬師・釈迦・阿弥陀の4体の仏像が安置されていました。

第2次大戦中、五重塔は管理が行き届かず扉は壊れた状態でした。その内部に仏像が置かれたままになっているのを発見した当時の宮司は、仏像の破損や盗難を防ぐため、急いで東照宮内に4体を引き取って大切にお守りし、戦後寛永寺にお返ししました。現在 この4体の仏像は東京国立博物館に寄託されています。

上野東照宮

松崎鉄之介の句碑


富貴には遠し年々牡丹見る

平成7年(1995年)4月、濱創刊五十年記念事業として建立。

村田周魚句碑


盃を挙げて天下は廻りもち

昭和32年(1957年)4月、建立。

碑 陰

   川柳の碑

村田周魚先生は本名泰助
明治二十二年下谷車坂に生る
川柳を志してより五十有余年
その間川柳きやり吟社を興し
遠く海外にまで斯道の発展に
尽くす 社人その徳を慕いて
この碑を建つ

尾藤三柳句碑


乱世を酌む友あまたあり酌まむ

昭和4年(1929年)、尾藤三柳は東京に生まれる。本名・源一。

平成9年(1997年)5月3日、川柳活動五十年を記念して句碑建立。

平成28年(2016年)10月19日、87歳で没。

唐 門


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