抑当社稲津乃神霊はもと猪名津氏にして漢織呉服の神臣に続せり。星うつり霜を累て爰に青流洞祇空、別名敬雨、其志閑雅に隠逸の子也。生涯を風月にゆたね、吾朝の勝地あそはさる所なし。杖頭に日月を挑け、破笠に青天を戴く。花に□し、月に嘯き、天然を楽み、非常の人といはんもむへなり。此道を好む人、祇敬霊神と崇む。神魂近く在して、これを敬せさらむやと。爾云。給事中範昌詞之。
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碑陰に「門人 石文綸謹謄写」とある。
範昌は長谷少納言平範昌。石文綸は神田在住の和泉屋弥七。
かつては石尊山(富士塚)の側にあった祇空を祀る稲津祠のもので、祠は絶えて本碑のみ残ったという。
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遠藤曰人は富岡八幡宮に詣で「稲津祠」を見ている。
祇空 稲津氏、青流洞祇空居士ナリ、石霜庵、初敬雨ト云、信徳門人高弟ナリ。一日深川八幡に詣、末社末社順禮し侍る中ニ新敷一社有、祇敬靈神トアリ、稲妻宮トアリ、雷ヲ驚キタルニテ敬雨トツキタルナリ。
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富岡八幡宮(深川八幡)は東京十社の一つ。
明治元年(1868年)11月8日、明治天皇は准勅祭神社として幣帛を捧げられ、東京の鎮護と万民の平安を祈願された。これが東京十社である。 |
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災で焼失。
大正13年(1924年)9月15、永井荷風は八幡宮境内震災後の光景を見る。
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空曇りて風冷なり。午後永代橋を渡り八幡宮境内災後の光景を見歩き、木塲を過ぎ、洲崎遊廓を歩む。
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昭和8年(1933年)12月、復興建築として社殿が完成。
昭和20年(1945年)3月9日、10日、東京大空襲で被災し焼失。
昭和20年(1945年)3月18日、昭和天皇は空襲罹災地巡幸のため、富岡八幡宮境内を訪れたそうだ。
昭和31年(1956年)、総鉄骨鉄筋コンクリート造りとして現在の社殿が竣工。
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