下 町江東区


富岡八幡宮〜花本社〜

東京メトロ東西線門前仲町を下りると、深川不動尊がある。


深川不動尊の東に富岡八幡宮(HP)がある。


御祭神は応神天皇(誉田別命)外8柱。

「江戸最大の八幡様」だそうだ。

寛永4年(1627年)、永代島に創建。

永代島八幡宮とも呼ばれていた。

   永代島八幡宮奉納

汐干也たづねて参れ次郎貝

親にらむ比目を踏ん汐干哉

紀國の鯛釣つれて汐干かな


富岡八幡宮境内に伊能忠敬像があった。


 寛政12年(1800年)閏4月19日(陽暦6月11日)、55歳の伊能忠敬はこの地から全国測量の旅に出発しました。

平成13年(2001年)10月吉日、伊能測量200年を記念して建立。酒井道久製作。

八つの末社


左側に「花本社(はなのもとしゃ)」と祖霊社に合祀されている。

 「花本社」の御祭神は松尾芭蕉命で、寛政年間(1789〜1800年)、当時の俳人有志により建立された。「花本」は、西行の「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌にちなんだものともいわれるそうだ。

 天保14年(1843年)、芭蕉百五十回忌に田川鳳郎は二条家に請願し、芭蕉に「花本大明神」の号が贈られた。

祖霊社は富岡八幡宮の歴代祖霊が祀られている神社。

弁天池の畔に平花庵雨什の句碑があった。


   月雪花のながめはさらなり

奥深しほととぎすにも富ヶ岡

享和3年(1803年)8月、春蛾書。

文化10年(1813年)12月、雨什は74歳で没。

大島完来の句碑もあった。


花のやよひ一日はなのなくもかな

文政5年(1822年)2月、建立。五世雪中庵対山書。

永昌五社稲荷近くに「稲津祇空碑」があった。


抑当社稲津乃神霊はもと猪名津氏にして漢織呉服の神臣に続せり。星うつり霜を累て爰に青流洞祇空、別名敬雨、其志閑雅に隠逸の子也。生涯を風月にゆたね、吾朝の勝地あそはさる所なし。杖頭に日月を挑け、破笠に青天を戴く。花に□し、月に嘯き、天然を楽み、非常の人といはんもむへなり。此道を好む人、祇敬霊神と崇む。神魂近く在して、これを敬せさらむやと。爾云。給事中範昌詞之。

碑陰に「門人 石文綸謹謄写」とある。

範昌は長谷少納言平範昌。石文綸は神田在住の和泉屋弥七。

 かつては石尊山(富士塚)の側にあった祇空を祀る稲津祠のもので、祠は絶えて本碑のみ残ったという。

遠藤曰人は富岡八幡宮に詣で「稲津祠」を見ている。

祇空 稲津氏、青流洞祇空居士ナリ、石霜庵、初敬雨ト云、信徳門人高弟ナリ。一日深川八幡に詣、末社末社順禮し侍る中新敷一社有、祇敬靈神トアリ、稲妻宮トアリ、雷キタルニテ敬雨トツキタルナリ。

『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人稿)

富岡八幡宮(深川八幡)は東京十社の一つ。

 明治元年(1868年)11月8日、明治天皇は准勅祭神社として幣帛を捧げられ、東京の鎮護と万民の平安を祈願された。これが東京十社である。

 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災で焼失。

 大正13年(1924年)9月15、永井荷風は八幡宮境内震災後の光景を見る。

空曇りて風冷なり。午後永代橋を渡り八幡宮境内災後の光景を見歩き、木塲を過ぎ、洲崎遊廓を歩む。


 昭和8年(1933年)12月、復興建築として社殿が完成。

 昭和20年(1945年)3月9日、10日、東京大空襲で被災し焼失。

 昭和20年(1945年)3月18日、昭和天皇は空襲罹災地巡幸のため、富岡八幡宮境内を訪れたそうだ。

 昭和31年(1956年)、総鉄骨鉄筋コンクリート造りとして現在の社殿が竣工。

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