下 町墨田区
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梅若公園〜銅造榎本武揚像〜

東武スカイツリーライン鐘ヶ淵駅下車。

武藏・下総を結んだ古代東海道

 東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武藏国と下総国を結ぶ古代の官道がありました。古代東海道と呼ばれるこの街道は、現在の墨田区北部を東西に貫き、京の都から常総方面に至る幹線道路として多くの人々に利用されていたと考えられます。

 官道定められた年代は9〜10世紀と想定されます。『大日本地名辞典』に「隅田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総府へ達する一径あり、今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されているように、明治13年(1880年)の地図からは、古代の官道の特徴を示す直線道を見出すことができます。また、この道筋には大道や立石など古代の官道跡に見出される地名が墨田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、江戸川区小岩(大道下)に確認できます。また葛飾区立石には、古代の標石に使用されたと考えられている立石様が残っています。これらは古代東海道の名残を示すものといえます。

 鐘ヶ淵から西に進むと隅田川に至ります。江戸時代より前の時代、隅田川を渡るには船がおもな交通手段でした。承和2年(835年)の太政官符で渡船の数を2艘から4艘にしたことは、隅田川を往来する人々の増加を物語っています。その行程をたどるのが『伊勢物語』東下りの場面です。在原業平が「名にしほはゝいざ事とはむ宮こ鳥わがおもふ人はありやなしやと」と詠ったとされる場所は、古代東海道をつなぐ渡であった」のです。

墨田区教育委員会

墨田区堤通の墨堤通り沿いに墨田区立梅若公園がある。

都旧跡梅若塚


 東京都指定旧跡

梅若塚

 梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将帷房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太と言う人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。

 木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた隅田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白髭防災団地建設に伴い現在地に移転しています。

東京都教育委員会

銅造榎本武揚像


「榎本武揚」

 榎本武揚は天保7年(1836年)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所(昌平黌)で学び、安政3年(1856年)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年 (1866年)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。

 榎本帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制転換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年 (1869年)降伏しました。

 その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875年)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。

 明治18年(1885年)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任、以降、文部、外務、農省務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。

 晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908年)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

「銅像について」

 本像は青銅製で、高さ約400cmの台座上に像高300cmの榎本武揚の立像が乗っています。

 建立は大正2年(1913年)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。

 本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。

 原型作者のひとりである藤田文蔵は洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。

東武スカイツリーライン鐘ヶ淵駅


浅草寺へ。

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