この地に石川啄木の住まいがありました。その家で啄木が最後に創作した歌がこの2首です。右に東京都指定旧跡の「石川啄木終焉の地」の説明板、左の顕彰室に歌碑の解説等がありますのでご覧ください。
北岩手郡渋民村(現在の盛岡市内)を故郷とし、この地でその生涯を閉じた石川啄木。ゆかりの深い文京区と盛岡市では平成19年より啄木の顕彰等を通じて交流を深めてきました。
啄木の没後100年を迎えた平成24年、啄木を愛する方々による「石川啄木終焉の地に歌碑を」との声を受け、文京区は隣接する国有地の取得を発表。歌碑に向けて検討を開始しました。
平成25年、隣接地への高齢者施設の解説にあわせて啄木歌碑と顕彰室の設置を決定。文京区石川啄木基金を設けて、広く寄附を呼びかけました。
平成27年3月、多くの方々のご協力をいただき、この歌碑が誕生しました。 |
石川啄木終焉の地歌碑

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呼吸すれば、
胸の中にて鳴る音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!
眼閉づれど
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな |
明治44年(1911年)8月7日、石川啄木は小石川区久堅町74番地(この建物の右隣)に引っ越します。この年の2月以来闘病生活を余儀なくされましたが、歌作は続けていました。病状(結核性のもの)は回復の兆しを見せており、引っ越しからも17首を作って前田夕暮の雑誌『詩歌』9月号に寄稿しています。
しかし一家の窮迫をみかねて父一禎が家出し、小樽に住む次女トラとその夫山本千三郎の家へ向かってしまいます。9月3日のことでした。これを悲しんでいた啄木に、さらにショックな事件が起こります。
9月10日ころ親友中の親友として頼りにしていた宮崎郁雨と妻節子にいわゆる「不愉快な事件」が起こり、啄木は郁雨と義絶します。この事件が啄木に致命的な打撃を与え、神経衰弱となり、病状も悪化してしまいます。
これらの打撃は啄木から歌作の気力をも奪い去ってしまいます。歌が湧き出て3日で計254首も作り、自分の意のままになるのは「この机の上の置時計や硯箱やインキ壺の位置と、それから歌ぐらゐなものである」と言っていた啄木が歌作を止めてしまうのです。
明けて明治45年(1912年)正月、函館の岩崎正宛年賀状にようやく哀しい歌を1首書き添えますが、啄木の病状は悪くなる一方でした。2月中旬、歌はおろか日記さえも書けなくなった啄木に、土岐哀果から歌集『黄昏に』が送られてきます。扉の次の一枚には「この小著の一冊をとって、友、石川啄木の卓上におく。」と印刷されていました。啄木は親友の歌集を読んで最後の創作意欲をかき立てられます。そこで相馬屋製の原稿用紙に書きつけたのが、このたび碑になった2首です。呼吸の際に気管から聞こえる異音に淋しさを感じるさま、死に直面した絶望の境地が詠まれています。
ドイツでは作曲家や詩人の最後の作品を「白鳥の歌」といいますが、碑に刻まれたこの2首はまさに啄木の「白鳥の歌」となりました。 |
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