今から約千年の昔、この附近一帯は野原や田畑ばかりで、その中に榎の大木があり、そこに社を建てて王子稲荷の摂社として祭られたのが、この装束稲荷であります。 この社名の興りとして今に伝えられるところによれば、毎年12月の晦日の夜、関東八ヶ国の稲荷のお使がこの社に集まり、ここで装束を整えて関東総司の王子稲荷にお参りするのが例になっていて、当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって、翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。江戸時代の画聖安藤広重も、この装束稲荷を浮世絵として残しています。 その後、明治中期に榎の大木は枯れ、土地発展に伴いその位置も現在の王子2丁目停留所となり、社はその東部に移されました。 昭和20年4月13日の大空襲の際、猛烈な勢で東南より延焼して来た火災をここで完全に喰い止めて、西北一帯の住民を火難から救ったことは有名な事実であります。 この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので、社殿を造営せんものと地元有志の発起により多数の信者各位の御協力を得て、現在の社殿を見るに至りました。 この装束稲荷は商売繁昌の守護神のみならず、信心篤き者は衣装に不自由することなく、又火防の神としても前に述べた通りで、信者の尊崇を高めています。
装束稲荷奉賛会 |
王 子 追々に狐集まる除夜の鐘
『俳句稿』(明治三十年 冬) |
かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。 毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によって、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。 江戸の人々は、商売繁盛の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も盛んになっていました。やがて、王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、上の広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。 昭和4年(1929年)、装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成5年(1993年)からは、王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって、王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃(かみしも)姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。
東京都北区教育委員会 |
いざあけん ゑび屋扇屋 とざすとも 王子の狐 かぎをくはえて |