日光道中は、日本橋を起点に日光を終点とする江戸時代の五街道の一つである。日光街道ともいう。地元では、周辺の古い地名「小塚原(こつかっぱら)」の略称を冠して「コツ通り」と呼ばれている。 寛永元年(1624年)、幕府により整備が始められ、全国的な主要幹線として多くの人馬が行き交った。区内では、現在の泪橋交差点から千住大橋までの道筋がこれに相当する。江戸の入口にあたり、日光道中の初宿である千住宿(下宿)が置かれた。 明治6年(1873年)からは国道陸羽街道と称し、主要幹線として機能したが、昭和27年(1952年)の新道路法の施行により、特例都道第464号言問橋南千住線となった。 なお、昭和37年以来、日光街道の名称は、国道4号線の宇都宮以南の東京都通称道路名として使われている。
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千住宿界隈や隅田川沿岸の社寺には、江戸の文人が残した碑(いしぶみ)が多く見られる。 この境内にも、文人が建てた2基の碑がある。文政3年(1820年)建立の松尾芭蕉の句碑と、旗本池田家の主治医の死を悼んで、天保12年(1841年)に建てられた森昌庵追慕の碑である。 芭蕉の句碑は、谷文晁の弟子で関屋在の建部巣兆・儒学者で書家としても名高い亀田鵬斎らが、森昌庵追慕の碑は、『江戸名所図会』などの挿絵で知られる長谷川雪旦、この近隣に住んでいた俳人・随筆家の加藤雀庵らがそれぞれ建碑にかかわった。 これらの碑は、文人たちの交流を今日に伝えている。
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千じゆと云ふ所にて船をあがればは 前途三千里のおもひ胸にふさかりて 幻のちまたに離別のなみたをそゝく 行く春や鳥啼き魚の目ハ泪なみた
はせを翁 |