下 町〜豊島区〜
徳川慶喜巣鴨屋敷跡地
〜白山通り(旧中山道)〜
徳川幕府十五代将軍徳川慶喜〔天保8年(1837年)〜大正2年(1913年)〕がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治30年(1897年)11月、慶喜61歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年3月には皇居に参内、明治35年には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。 巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人からは、「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治34年12月までの4年間で、その後小日向大六天町(現文京区小日向1・4丁目付近)に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白〜田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。
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嘉永7年(1854年)刊行。案内図として作成されたため実測とは異なるが、当時の様子をよくとらえている。図の下半分を斜めに通る道が中山道。徳川慶喜の屋敷は、当図において「巣鴨町下組」(明治5年に廃止。一部が巣鴨1丁目となる)の辺りに建てられた。
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