下 町北 区
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東京外国語大学西ヶ原キャンパス跡地

都電荒川線西ヶ原四丁目駅下車。

染井霊園に向かう。

西ヶ原みんなの公園西入口に「東京外国語大学西ヶ原キャンパス跡地」の碑があった。


東京外国語大学の起源は、安政4年(1857年)1月に開校した蕃書調所まで遡る。明治6年(1873年)11月に直接の前身である東京外国語学校が東京府神田区一ツ橋通町に建学され、神田区錦町、麹町区元衛町・竹平町を経て、昭和19年(1944年)5月に東京外事専門学校が当地に移転した。その後、昭和24年(1949年)に東京外国語大学が新制大学として発足し、平成12年(2000年)に府中市に移転するまで、多くの学生がこのキャンパスに学び、巣立って行った。東京外国語大学がこの地にあったことを記念して、 ここに碑を建立する。

平成25年2月 東京外国語大学

薔薇が咲いていた。


下瀬坂


 この坂名は、明治32年(1899年)ここに設けられていた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し,跡地は東京外国語大学のキャンパスとなりました。(現在は移転)。このあたりは,江戸時代に幕府の御薬園があり,谷田川の水源となる湧水もありました。

北区教育委員会

「日本の砲弾は、すごい」

 と、たれかがいうと、みな口々におなじことをいった。かれらはまだ下瀬火薬の実体を知らなかったが、そのおそるべき効果のほうをさきに知らされた。

「艦体に命中せず、舷側の海中におちただけでもう大炸裂をおこし、その砲弾から出る高熱ガスが吃水下装の鋼鉄板の縫合部を破壊したり、浸水させたりするのです」

 と、およそ考えられぬ爆発状況を話した。要するに砲弾がガスを多量に発生させ、かつそのガスが高熱であるという。装甲帯に対してさえそうだから、非装甲部に命中したばあいは、

「その爆発によるガスの力はロシア砲弾の比ではありません。舷側および甲板上の金属はもちろん、煙突をやぶり、通風筒をやぶり、鉄製マストをふっとばし、船の操縦をつかさどる機械を破壊してしまう。このガスの熱は信じられないほどに高く三千度ぐらいには達しているでしょう。その証拠に、鉄鋼に塗ったペンキが、そのガスの熱で溶けて蒸発してあたかもアルコールのように燃えるのです」

「あれは砲弾じゃない、飛ぶ魚雷だ」

 と、いった者もある。

『坂の上の雲』(黄 塵)

 セミョノーフはさらに日本が発明した新砲弾の威力を過大なほどに評価した。

「日本の砲弾は普通の綿火薬でなく下瀬火薬を用いている。大ざっぱにいえば、炸裂せる日本砲弾の一弾の威力はロシア砲弾の十二個ぶんの威力をもっていた」

 とセミョノーフは、日本のもつ物理的な力にすべての原因を帰せしめようとしたが、その動機のひとつはかれがロジェストウェンスキーの記録者として、その提督の戦術が拙劣であったということを覆いたいというところから出ていた。

『坂の上の雲』(死 闘)

染井霊園へ。

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