下 町台東区
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〜浅草寺〜

浅草3丁目から再び浅草寺へ。


浅草寺本堂(観音堂)


裏から写真を撮ってみた。

 浅草寺にて

、    雨の日や桜しづまるうしろ堂

加舎白雄「鎌都」

十月やうらからおがむ浅草寺

『七番日記』(文化12年10月)

人通りも少なくなった。

雪の曙観音堂をおほらかにひと廻りしてみたりけるかも


 浅草寺は草創以来焼失と再建を繰り返した。

 慶安2年(1649年)、三代将軍家光によりに再建され、明治40年(1907年)「国宝」に指定された。

 関東大震災も無事に免れたが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で「国宝浅草寺本堂」は焼け落ちてしまった。戦後の昭和26年(1951年)復興に着手、昭和33年(1958年)に再建。

浅草寺五重塔


堤上に佇立みて淺草の方を臨むに、花川戸の人家地震の後皆假小屋なれば、觀音堂二王門及び五重の塔よく見ゆ。五重塔は上より三層目の欄干まで見ゆるなり。觀音堂の大屋根こなたの堤より眺望すれば雄大広壯言ふばかりなし。

『斷腸亭日乘』(大正13年2月16日)

戦災により焼失。

昭和48年(1973年)11月1日、再建。鉄筋コンクリート造りである。

五重の塔の雪うつくしく段々につもりけるかなと眺めてぞゐし   白秋

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅を終え、浅草寺に参詣して句を詠んでいる。

 浅草に入て、はや江戸の気色、こゝろには錦を着て編綴(へんてつ)の袖を翻し、観音に詣

   ○手を上て群集(ぐんじゆ)たり草の花


 明和元年(1764年)12月16日、内山逸峰は浅草寺で歌を詠んでいる。

 明る十六日、浅草の観音にて、

   たがつけし誓ひ千尋の海よりも深きめぐみの名をばあさくさ


 明和8年(1771年)5月1日、諸九尼は浅草寺に参詣している。

浅草の観音にまうでしに、行かふ人のを(お)し合ひたるさま、聞しよりまさりてにぎわ(は)し。


 安永9年(1780年)4月12日、蝶夢は浅草寺に参詣している。

 浅草寺は、参詣の貴賤とろとろと水の流るゝごとし。此国に昔よりおはします観世音にて、霊験の事は、かけても申さじ、この年月の火にも焼で、御堂物ふりにたり。「火不能焼」のちかひなるか。


文化6年(1809年)3月、優婆塞菜窓菜英三匠句碑建立。



ながむとて花にもいたし頸の骨
   宗因

花の雲鐘は上野か浅草か
   芭蕉

ゆく水やなににとどまる乃里(のり)の味
   其角

 文化7年(1810年)6月13日の朝、小林一茶蕉雨と山谷堤から猪牙(ちょき)舟に乗り、浅草寺の鐘の音を聞く。

正岡子規の句碑があった。



観音で雨に逢ひけり花盛

『寒山落木 巻四』(明治二十八年 春)に収録の句。

東京で子規の句碑を見たのは初めてだ。

雷門通りへ。

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