明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが、勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治10年(1877年)の西南の役により、故郷鹿児島において子弟3000余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑され、さらに明治16年(1883年)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。 この留魂祠は、元東京南葛飾郡大木村上水下川(現、葛飾区東四ツ木1−5−9)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正2年(1913年)、石碑と共に現在の地へ移されました。右となりには勝先生御夫妻の奥津城(墓所)があり、維新の両雄は今なお相並んで我が国の将来を見守っておられるのです。
南洲会 |
勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すため、三回忌にあたる明治12年(1879年)に自費で建てたものです。もとは葛飾区の浄光寺にあったものが、大正2年(1913年)の荒川開削工事に伴い当地に移設されました。 内容は西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。 |
朝(あした)に恩遇を蒙り 夕(ゆうべ)に焚カウ(※こざとへん+「亢」)せらる、 人世の浮沈は晦明(くわいめい)に似たり。 縦(たと)ひ光を回(めぐ)らさざるも葵は日に向ふ、 若(も)し運を開く無きも意は誠を推さむ。 洛陽の知已皆鬼(き)と為り、 南嶼(なんしょ)の俘囚独(ひとり)生を竊(ぬす)む。 生死何ぞ疑はむ店の附与なるを 願はくは魂魄を留めて皇城を護らむ。 獄中感有リ 南洲 |
勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すため、三回忌にあたる明治12年(1879年)に自費で建てたものです。もとは葛飾区の浄光寺にあったものが、大正2年(1913年)の荒川開削工事に伴い当地に移設されました。 内容は西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。 |
堂々錦旆壓關東百萬死 生談笑中群小不知天下 計千秋相對両英雄 |
堂々たる錦旆(きんぱい)關東を壓し、 百萬の死生談笑の中(うち)。 群小知らず天下の計、 千秋相對す両英雄 |
昭和12年(1937年)数名の者が計画し、勝海舟門下生の一人であった徳富蘇峰(1863−1957)に詩を書いてもらい建てたものです。勝と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれています。この碑が完成した際に、隣接する清明文庫で記念講演が開かれており、その様子が写真で残されています。 |