同所北の方にあり。臨済宗江戸四箇寺の一なり。旧(もと)報恩山天沢寺と称せしが、春日局の法号を取つて麟祥院とあらたむ)本尊は釈迦如来。開山は渭川劉和尚。(京師(みやこ)花園妙心寺より招かせらる)、本願は春日局なり。(三代大将軍の御乳母人(おちのひと)、斎藤利三の女(むすめ)にして、稲葉侯正成の室なり。寛永十八年九月十四日六十五歳にして没す。麟祥院殿従二位了義大姉と号す。) |
春日局(天正7年〜寛永20年・1579〜1643)は、三代将軍徳川家光の乳母で名はお福。 稲葉正成との間に3児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長9年(1604年)家光が生まれるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。 この麟祥院は、寛永元年(1624年)春日局隠棲所として創建され、「報恩山 天澤寺」と称した。局の死後、寺はそのまま菩提寺として法名にちなみ「天澤山 麟祥院」と改めた。 墓地奥にある局の墓は無縫塔で四方に穴が貫通した特異な形をしている。 |
明治20年(1887年)、この麟祥院内に「東洋大学」の前身である「哲学館」が創立された。 創立者井上円了は、安政5年(1858年)越後国(新潟県)の寺に生れる。明治18年(1885年)東京大学文学部哲学科卒業。2年後の明治20年(1887年)9月16日、哲学諸科の教授を目的として、私立学校「哲学館」を境内の一棟を借りて開校した。哲学館では、授業以外に講義録を毎月3回発行して、今日でいう通信教育を行うなど哲学の普及につとめた。 円了は大正8年(1919年)大連で逝去。享年61歳。 |
明治20年(1887年)9月16日、井上円了は民衆に教育の機会を開放し、かつ哲学を中心とする教育を行うことを目的として、「東洋大学」の前身である哲学館をこの地に創立した。 |
幼名は福。父は明智光秀重臣斎藤内蔵助利三、母は刑部少輔越智道明の女で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の3子をもうけましたが、慶長9年(1604年)三代将軍家光の乳母として召し出され、三千石を賜わりました。 家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽くしたことは有名です。 寛永5年家光25歳の折、疱瘡にかゝられ、諸医の手当にも験(しるし)がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。 その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が恢復しました。そのため局は身の終る迄針灸薬餌を一切用いなかったと言うことです。 寛永6年京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜わり、後水尾天皇より天盃を頂戴しました。同9年再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられました。寛永20年(1643年)9月14日、65歳で卒し、当院墓地に葬られました。
文京区 |
淀藩稲葉家の墓がある。 寛永9年(1632年)11月23日、稲葉正勝は小田原藩初代藩主となる。熊本藩主加藤忠広の改易に際して熊本城接収の副使を務める。寛永11年(1634年)1月25日、没。享年38。 次男・正則が跡を継ぐ。正則の正室は毛利秀元の娘万菊。正厳院の墓がある。 正則の娘は堀田正俊の正室。佐倉藩堀田家の墓がある。 |