町名は、本町内に鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。 谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治2年(1869年)のことである。そして同4年、江戸時代から六阿彌陀横町または切手町とわれた武家地が初音四丁目になり加わった。さらに同24年、初音町四丁目は谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併し、ここに初音町としての町域を確定した。 本町には、かつて日本近代美術の先覚者岡倉天心が住んでいた。明治30年(1897年)東京大学卒業後、文部省に勤めたが同22年、東京美術学校を開設するなどして日本近代美術の振興につとめた。その天心の旧居跡が現在の岡倉天心記念公園である。公園正面の六角堂には本区名誉区民・芸術院会員であった平櫛田中作の「岡倉天心先生坐像」が安置されている。 |
東京都指定旧跡 |
日本美術院は明治31年(1898年)岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員には横山大観、下村観山らがいた。 活動は絵画が主で、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法を取りいれ、近代日本画に清新の気を与えた。 この場所に建てられた美術院は明治31年9月に竣工した木造二階建で、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、附属建物も2、3あったといわれている。明治39年(1906年)12月に美術院が茨城県五浦(いずら)に移るまで、ここが活動の拠点になっていた。 昭和41年(1966年)岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。
東京都教育委員会 |
ここには、岡倉天心にゆかりのある福井県より寄贈された越前水仙が植えてあります。なお、この水仙は地元谷中初四町会の皆さまにより栽培されました。 |
谷中鶯初音の血に染む紅梅花 常々男子は死んでもよい 奇骨侠骨開落栄枯は何のその 常々男子は死んでもよい |
讃 岡倉天心史蹟記念堂 明治美術界の偉大な先覚者岡倉天心は、明治21年当地谷中初音町に日本美術院を創設し、幾多の俊英を育成して東洋美術の真髄を広く世界に紹介した。とくに日本の明治開化期にあって、東京美術学校の創立、中国、インドの古美術踏査、日本美術史の著述など多岐にわたる芸術活動は、我が国美術界に大きな改革をもたらした。 本区の誇る偉才岡倉天心の輝かしい業績を後世に伝えるべく台東区長上條貢氏はかねて遺蹟顕彰の方策を持っていたが、時偶々上野信用金庫理事長長野高一氏より多額の淨財の寄託を受けるに及び日本美術院発祥の当地に岡倉天心史蹟記念堂の建設を発意した。 上條区長の委嘱により地元関係者をもって建設委員会が結成され、史蹟記念堂の実現に意を注いだ。幸い天心の直門であり、その薫陶にも触れた日本木彫界の泰斗平櫛田中先生の賛意を得て秀作「岡倉天心像」の寄贈を受け、これを六角堂に収め「岡倉天心史蹟記念堂」と命名する。 芸術文化の中心地として知られる上野の一角に平櫛田中、長野高一両氏をはじめとする多くの人々の厚意によって「岡倉天心史蹟記念堂」が建設されたことは誠に大きな意義がある。とこしえに天心の偉業を伝える事績として愛護されんことを記念し、ここに讃を記す。 |