下 町〜中央区〜
石町時の鐘 鐘撞堂跡
〜「夜半亭−与謝蕪村居住地跡−」〜
中央区日本橋室町4丁目の国道17号(中央通り)に「さくら室町ビル」がある。 |
石町三丁目の小路にあり。辻源七といへる者これを役す。この鐘、初めは御城内にありしとなり(その余、都城の繞(めぐ)りに有りて、候時を報ずるものすべて八ケ所なり。所謂浅草寺・本所横川町・上野・芝切通・市谷八幡・目白不動・赤坂田町成満寺・四谷天竜寺等なり。)銘に曰く。宝永辛卯四月中浣 鋳物師大工 椎名伊予 藤原重休 |
按ずるに、宝永七年十二月十九日、誓願寺前より出火し、石町のあたり焼亡す。その頃この鐘も焼けたりし故に、翌る宝永八年、鋳直されしなり。 |
時の鐘は、江戸時代に本石町3丁目へ設置された、時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役を任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永8年(1711年)に製作された時の鐘(東京都指定文化財)が十思公園内(日本橋小伝馬町)に移されて残っています。 鐘撞堂は度々の火災に遭いながら、本石町3丁目(現日本橋室町4丁目・日本橋本町4丁目)辺りにあり、本通りから本石町3丁目をはいって鐘撞堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移設された十思公園までの道が平成14年3月に「時の鐘通り」と命名されました。 近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。
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夜半亭は、元文2年(1737年)に俳諧師早野巴人(1676〜1742)が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵である。「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなみ、巴人も「夜半亭宋阿」と号しました。 この夜半亭には、多くの門弟が出入りしていましたが、なかでも「宰町」と号していた若き与謝蕪村(1716〜1783)は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励みました。 蕪村は、安永3年(1774)年)巴人三十三回忌追善集「むかしを今」の序文で「師やむかし、武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老の寝ざめのうき中にも、予とともにはいかい(俳諧)をかたりて」と夜半亭での巴人との様子を記しています。 寛保2年(1742年)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散、蕪村は江戸を離れ、常総地方などを歴訪後、京都を永住の地と定めます。 やがて、俳諧師としての名声を高め、画業においても池大雅と並び称されるほどになった蕪村は、明和7年(1770年)巴人の後継者に推されて京都で夜半亭二世を継承しました。
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縁切り寺として有名な東慶寺で離婚成立の3年を迎えようとする女の許に関係浅からぬ男から、「そろそろ還俗だね」と鬢葛が届けられた。それは十日十夜にわたって行われる十夜法要の間だったという句意だそうだ。 |