天保5年福澤諭吉この地に学塾を開く。創立百年を記念して昭和33年慶応義塾これを建つ。 |
慶應義塾の起源は1858年福澤諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。この地はまた1771年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代発祥の地として記念すべき場所である。 |
この胸像はオランダのライデン大学とイサーク・アルフレッド・エリオン財団から日蘭修好を目的として、朝日新聞社の尽力によって中央区に寄贈されました。 |
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政6年(1823年)7月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。 同9年正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、同11年シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放された。後に安政6年(1859年)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。 彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。
中央区教育委員会 |
「月島の渡し」は, 月島一号地の埋め立てが完成して間もない明治25年(1892年)11月, 土木請負業の鈴木由三郎が, 南飯田町(現在の築地7丁目町18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ 手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。 明治34年(1901年)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め、翌35年、汽船曳船2隻で交互運転を開始し, 渡賃も無料となりました。明治44年には、東京の臨海工業地帯へと発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡船も開始されました。 月島の渡しの渡船場は、当初、明石橋橋詰の南飯田町にありましたが、東京市に移管されて運営が開始される明治35年以降は、明石町(現在の明石町14番)に渡船場を移設し、大いに利用されてきました。 昭和15年(1940年)に勝鬨橋が架橋されたことにより、渡船の運航に終止符が打たれましたが、明治から昭和にいたるまで住民や工場へ通う人々の重要な交通機関として活躍しました。 月島の渡しは、月島工業地帯の発展ひいては日本の近代化に寄与した渡船として語り継がれています。
中央区教育委員会 |
快晴。朝丸の内に用事あり。銀座を過ぎて月嶋の渡船場に至る。風靜にして歩みつゞくる時汗出る程のあたゝかさなり。正午歸宅。
『斷腸亭日乘』(昭和12年11月15日) |