平成元年(1989年)12月、東京荒川ライオンズクラブ25周年記念に寄贈。制作橋本活道(名鷲岳了)。 |
橋本活道
道灌の「山吹の一枝」の故事にちなんで、それを契機に文の道に目覚めたという道灌が、まさに「回天」の勢いで文の道を極めていったことを表現しようと「回天一枝」という作品名を、作者の橋本氏と鈴木俊一元都知事がこの太田道灌騎馬像に命名いたしました。−山吹の里の伝説− 若き日の太田道灌が狩りの道中で雨に遭い、一軒のあばら家に立ち寄り、蓑(みの)を借りようとしました。しかし、少女は無言で山吹の一枝を差し出し、道灌は怒って雨の中を帰りました。 その後家臣から、少女は「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌によせて、蓑ひとつない貧しさを山吹に託したのでしょうと聞き、己の無学さを恥じ、歌道にも励むようになったと言われています。 |
平成30年(2018年)5月、東京荒川ライオンズクラブ寄贈。制作平野千里。 |
鷹狩りの途中で道灌が急な雨に遭遇し、路傍の農家に立ち寄り、蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、黙って一枝の山吹を捧げた。 「七重八重花は咲けども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき」
(後拾遺和歌集・兼明親王)
「山吹」の意を得ずに、憤り帰った道灌は、家臣から「山吹」の意を告げられる。娘が古歌に託して「実の」に「蓑」をかけ「お貸しできる蓑もございません」と詫びていたことを知った道灌は、この後、和歌の道に精進するようになったと言われている。 荒川区周辺は、道灌の鷹狩りの場であり、花の木(現在の荒川6丁目)辺りに住んでいた高畠三左衛門の娘が、山吹の枝を差し出したと伝える。なお、この山吹の里伝説は、荒川7丁目の泊船軒、豊島区高田、新宿区新宿、埼玉県入間郡越生町など、各地にその伝承地がある。 太田道灌(1432〜86) 室町時代中期の武将。名は資長。道灌は出家後の名。扇谷上杉氏に仕えて、武蔵南部と相模の国で勢力を拡大し、江戸城の他に、川越・岩槻にも築城したとされている。荒川区周辺では平安時代から続く豊島本宗家を滅亡させた。軍事は言うまでもなく詩歌に長け、万葉集九ら学僧や歌人とも親交が深かった。 区内西日暮里には道灌に由来する伝承がいくつも残っている。道灌山(西日暮里4丁目)の地名は、江戸城の出城に由来すると伝え、道灌の子孫、掛川藩太田家の菩提寺の本行寺(西日暮里3丁目)には物見塚のあったことを伝える道灌丘碑が立つ。その他、西日暮里公園には、物資を運ぶ際に目印にした船繋松があったと伝え、出城の鎮守・諏方神社等がある。
荒川区 |