勝海舟は、江戸無血開城の直前、慶應4年(1868年)、池上本門寺において新政府軍との会談に臨みます。海舟はその際、洗足池に立ち寄りその景色を大変気に入りました。明治24年(1891年)になって洗足池の畔(現在の大森第六中学校の敷地)に別荘「洗足軒」を構えます。洗足軒には、モミジ、ヒノキ、ツバキなどが生育していました。 海舟は自然に囲まれながら、友人らと詩歌などを楽しみました。また、この地を埋葬の地と決めていた海舟は、明治32年に亡くなった後、北側にある墓所に葬られました。 |
昭和3年に、財団法人旧清明文庫が、海舟の墓所や別荘「洗足軒」の保存、海舟に関する図書の収集・閲覧・講義を目的として清明文庫を開設しました。洗足軒は、昭和2年には、現在の勝海舟記念館(旧清明文庫)の西側、この前庭の付近へ移築されました。 戦後、洗足軒は原因不明の火災により焼失してしまいました。海舟ゆかりの洗足池で、大田区は、国登録有形文化財の旧清明文庫を保存・活用した「勝海舟記念館」を整備し、海舟の思いと地域の歴史を未来に伝えてまいります。
大田区立勝海舟記念館 |
この胸像は、海舟の晩年の姿を表現したもので、彫刻家・高村光雲の弟子である本山白雲の作品です。 白雲は、高知県の坂本龍馬像を始め、偉人の銅像を多数制作したことで知られていますが、現存するものは少ないといわれています。本作は、昭和25年(1950年)以来、東京都議会に保管されていたものです。 |
金子堅太郎(1853〜1942)は、福岡藩出身の政治家。明治11年(1878年)、ハーバード大学で法律学を修了。級友にセオドア・ルーズベルト(後のアメリカ合衆国第26代大統領)がいた。帰国後、海舟の娘婿・目賀田種太郎と共に法律学の教鞭をとり、現在の専修大学の前身となる「専修学校」を創設。大日本帝国憲法制定の際には、様々な法律の起草に携わった。 大正時代には維新史編纂会の総裁に就任。その後財団法人清明会の顧問に迎えられ、勝家に伝わった維新史料等を収める清明文庫の創立にも寄与した。 この胸像の作者である新田藤太郎(1888〜1980)は、大正・昭和時代の彫刻家で、東京美術学校(現東京藝術大学)卒業後、文展・帝展で活躍している。 |