当地の旧社なり。(往古この所を茅原の里と云ふよし社伝に云へり。)昔新田の家臣篠塚伊賀守当社を信仰し、晩(のち)に入道して社の側に庵室を結びて住す。別当玉蔵院はその裔孫なりと云へり。
『江戸名所図会』(篠塚稲荷社) |
同所福井町にあり。伝へ云ふ、当社は永承六年源頼義朝臣、同じく義家朝臣、奥州下向の時こゝに至りたまふに、河上より銀杏の木の流れ来るあり。則ち義家公手づから地にさし、誓つて曰く、朝敵退治勝利あらばこの樹すみやかに枝葉を栄うべしとなり。遂にその軍(いくさ)勝利ありて凱陣の時、ふたゝびこゝに至り給ふに、枝葉栄えければ、八幡宮を勧請し給ひしとぞ。その昔は八幡塚と唱へけりとなん。神木の銀杏樹は、延享二年の秋暴風に吹き折られて、今わづかにその古株を存せり。
『江戸名所図会』(銀杏岡八幡宮) |
源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました、当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の場所であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れてくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み「朝敵退散のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時、丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神恩に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平5年(1062年)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となりまして、隅田川を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりましたが、時代は下り徳川家江戸入府後、元和4年(1618年)この地は福井藩松平家の屋敷となり、邸内社として尊崇されてまいりましたが、享保10年(1725年)この地が公収され屋敷の跡地は町屋となり、同15年、時の町奉行大岡越前守様に依り福井町と命名され、願いにより当社は地域の産土神として崇敬されてまいりました。大銀杏は延享2年(1745年)9月14日台風のため中程より折れましたが、高さ六メートル位を残して繁茂しておりましたが、文化3年(1806年)江戸大火の折焼失しました。 御祭礼は、江戸時代8月15日に執り行われていましたが、明治の中頃より6月15日にかわり、現在は原則として6月第1土曜、日曜日に執り行っています。 |
この此葉稲荷神社の御創建につきましては詳らかでは有りませんが、古くから此の八幡様の境内にお祀りをされておりました。稲荷の大神様は古来から衣食住をつかさどる神様として信仰を受けて参りました。現在では商売繁盛のご加護は元より私共の普段の生活をお守り下さる神様として多くの方々より篤いご信仰を戴いており霊験灼かなるお稲荷様でもあります。 |