下 町文京区
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本念寺〜大田蜀山人の墓〜

文京区白山に本念寺という寺がある。


日蓮宗の寺である。

大田蜀山人の墓

 南畝の生まれは牛込御徒町で、終焉の地は神田駿河台である。生年寛延2年〜没年文政6年(1749〜1823年)。17歳で幕府に出仕以後、能吏として活躍。一方19歳で「寝惚先生文集」を著し、文名を高め、以来多くの作品にみられる軽妙、洒脱な筆法によって町人文学の中心的存在となった。さらに狂歌の流行を見るに及び、彼の狂歌号(蜀山人(四方赤良)」の名声が高まって。本寺に眠る南畝の墓碑は「南畝大田先生之墓」とあるのみです。彼は一時、小日向金剛寺坂付近に住み、文京区にゆかりの深い文化人であるだけでなく、狂歌界にあって指導的役割を果たした文人として価値ある史跡である。

「行き過ぎて 七十五年くいつぶし 限り知らぬ天地の恩」(辞世)

日蓮宗 信弘山本念寺

−郷土愛をはぐくむ文化財−

東京都文京区教育委員会

南畝大田先生之墓


 大正11年(1922年)4月25日、永井荷風は本念寺に立寄り、蜀山人の墓を見る。

日の光早くも夏となれり。午下小石川原町蓮久寺にて、井上君先考の葬儀あり。燒香の後木曜會の二三子と本念寺に立寄り、蜀山人および其後裔南岳の墓を掃ふ。南岳墓碣の書は巖谷小波先生の筆にして、背面に眞黒な土瓶つゝこむ清水かなといふ南岳の句を刻したり。


 大正13年(1924年)4月20日、永井荷風は本念寺に赴き、大田南畝の墓を見る。

午後白山蓮久寺に赴き、唖々子の墓を展せむとするに墓標なし。先徳如苞翁の墓も未建てられず。先妣の墓ありたれば香花を手向け、門前の阪道を歩みて、原町本念寺に赴き南畝先生の墓を掃ひ、其父自得翁の墓誌を寫し、御薬園阪を下り極楽水に出で、金冨町旧宅の門前を過ぐ。


 明和5年(1768年)2月、大田南畝の父正智は致仕隠居。

 安永3年(1774年)2月、父正智薙髪して自得と号す。

 天明8年(1788年)9月9日、父自得歿。行年73。

大田自得翁之墓


 昭和16年(1941年)10月27日、永井荷風は本念寺で大田南畝の墓を見る。

晴れて風あり。午後散歩。谷中三崎町坂上なる永久寺に仮名垣魯文の墓を掃ふ。団子坂を上り白山に出でたれば原町の本念寺に至り山本北山累代の墓及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の墓は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向変わりたるやうなり。


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