荒川区登録有形文化財 |
この套堂は、昭和8年(1933年)に橋本左内の墓(区登録有形文化財)を保護するために造られた建造物です。大正12年(1923年)の関東大震災後に耐震性と不燃性の観点から注目されるようになった鉄筋コンクリート造で、規模は方一間(柱間1.94m)、宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根、軒裏および柱・梁等の軸部には、表面に人造擬石洗出・研出仕上げを施しており、伝統的な建築の意匠と近代的工法との折衷を図った近代仏教建築といえます。もとは回向院境内入口にありましたが、平成18年、套堂のみ区に寄贈され、同21年、ここに復元されました。 当時、套堂の施主となったのは、橋本左内を追慕し、道徳を広く発揚することを目的として、明治35年(1902年)に設立された景岳会で、事務所は福井県出身の学生を育英するため設けられた舗仁会内に置かれました。設計には、同会会員で建築家でもあった原田正があたり、歴史学者黒板勝美(古社寺保存会委員・東京帝国大学教授)に助言を求め、日本建築史を体系化した建築家伊東忠太(東京帝国大学教授・史蹟名勝天然記念物保存教会評議員)の監修を受けています。また、正面に据え付けられた陶製の橋本家の家紋のデザインは、福井県出身で、日本の陶彫のさきがけとして知られる沼田一雅(東京美術学校教授)によるものです。当代一流の学者の知識・技術・感性が結集した近代の貴重な文化財といえます。
荒川区教育委員会 |
天保5年(1834年)3月、橋本左内は福井藩奥外科医の子として生まれる。 嘉永2年(1849年)、大坂に遊学。緒方洪庵の適塾で蘭学を学ぶ。 安政4年(1857年)、福井藩主松平慶永(春嶽)の側近として藩政改革を行う。松平慶永の意を受け、一橋慶喜の将軍擁立のため活動。 安政5年(1858年)、彦根藩主井伊直弼、大老に就任し一橋派を弾圧。松平慶永は、隠居・閉門となり、橋本左内は福井藩邸内で謹慎。 安政6年(1859年)、橋本左内、一藩士が将軍継嗣に関わったことが問題とされ、小伝馬町牢屋敷において斬刑となり、小塚原回向院へ埋葬される。 |