両国橋の東話にあり。(昔はこの辺も柳島の中にして、大西と称したる由、『事跡合考』といへる冊子に見ゆ。)当寺は称念上人の遺風にして捨世一派の仏域たり。明暦三年丁酉の春大火の時焼死の輩(ともがら)の冥魂追福のため、毎歳七月七日大施餓鬼法会を修行す。又同八日仏餉施入の檀主現当両益の法事あり。総門の額に国豊山とあるは縁山定月和尚の筆なり。 |
明暦3年(1657年)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、未曽有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。 有縁・無縁・人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈愛を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
墨田区 |
墨田区と相撲の関わりは、明和5年(1768年)9月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。 天保4年(1833年)10月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に2度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。 明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治17年(1884年)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治42年(1909年)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。 力塚は、昭和11年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正5年(1916年)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。 現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が76年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。
墨田区教育委員会 |
今曉向兩國相撲小屋跡菊人形見世物塲より失火。回向院堂宇も尽く燒亡せしと云ふ。
『斷腸亭日乘』(大正6年11月29日) |
猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。 ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両をくわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。 江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。 |