台東区浅草2丁目3番 浅草寺
伝法院は浅草寺の院号で、住職の居住する本坊の称号に用いられている。諸建物のうち、客殿・玄関・使者の間・大台所の一部は、安永6年(1777年)の建造である。そのうち客殿には本尊阿弥陀如来像を安置し、6月の山家会(伝教大師の忌日法要)、11月の霜月会(天台大師忌日法要)をはじめ、個人の追善供養、寺内僧侶の修業などが行われる。 建物の背後には、大泉池を中心とする廻遊式庭園があり、江戸時代初期の築造といわれ、池畔には、至徳4年(1387年)在銘の梵鐘や京都表千家の不審庵を模した茶室天祐庵がある(非公開である)。 平成8年3月
台東区教育委員会 |
天明年間に尾張名古屋の茶人牧野作兵衛が京都表千家の茶室「不審庵」を模して作られたもの。大正5年に向島の徳川圀順邸、同12年に上目黒の津村重舎邸に移築された。 直後の大震災まぬがれ、「天祐庵」と名付けられる。さらに戦災をまぬがれ、昭和33年10月、伝法院に移築された。 |
昭和9年(1934年)9月2日、高浜虚子は武蔵野探勝会で伝法院へ。富安風生等同行。 |
会場は伝法院即ち金龍山浅草寺の大書院だ。その庭園は俗に小掘遠州の作と伝ふるところの秘庭だ。以前は僅に講中の者のみが、毎年春夏に拝観を許される例であつたさうだが、今は公開されてゐる。――観音堂の鬼灯市は見に来ても、オペラ館をば人にないしようでちよいちよい覗きはしても伝法院の御庭といふものは実は今日が初めての僕だつた。だいいち「浅草紅団」も「彼女とゴミ箱」も、お庭なんかの方面のことは、一向問題にしないから。―― 燈籠があつて、築山があつて、池があつて、築山には大きい松が蟠つて、池には一ぱい菱の葉が拡つて、萩が垂れ芙蓉がが咲き――すべてが型の通りに見える。どこがどういいのかわるいのか、われ等にもとより見分けがつかない――といつたら遠州泉下で苦笑だらうが。
『武蔵野探勝』(われらの浅草) |
九月二日、武蔵野探勝会。浅草、伝法院。 額だけ見え居る彼や萩の花 枝折戸をくゝれる縄や萩の雨 |
浅草伝法院 二句 エノケンも心にありて萩に彳つ 玉木座の看板しこに葛高し
『十三夜』 |
昭和17年(1942年)9月28日、高浜虚子と星野立子は玉藻俳句会で伝法院へ。 |
秋の雨月はもとより無かりけ 秋雨に濡れたる顔の光りかな 大広間秋を坐断しひとりをる 枝降りの正しき柿の大樹かな |
見る見る間秋日うするゝ萩葎 われ静まれば数へきれなく蜆蝶 秋風や淺草いつも祭めき |
昭和32年(1957年)11月13日、久保田万太郎文化勲章受章祝賀会が伝法院で開催された。 昭和33年(1958年)5月4日、『鶴』復刊5周年記念大会が伝法院で開催されている。 昭和35年(1960年)、久保田万太郎は伝法院へ。 |
淺草傳法院 名園の春の霜とけかねしかな
『流寓抄以後』 |
昭和37年(1962年)、仲秋名月の夜久保田万太郎はたまたま伝法院にいた。 |
仲秋名月の夜、たまたま淺草傳法院にあり (二句) 名月や傳法院の池のぬし 名月やあけはなちたる大障子
『流寓抄以後』 |