幕末の歴史に1頁を残した新選組の前身新徴組は、江戸市中から応募した浪士隊として清河八郎、山岡鉄舟らの呼びかけで、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らが参加し、文久3年2月4日、伝通院山内処静院で発会したと記録されております。 処静院は、その後火災に遭い消失しましたが、この碑建立の一帯が処静院で、大黒天に隣接しておりました。幕末時、処静院住職琳瑞和尚は、清河八郎らを支援したとして佐幕派浪士と見られた武士らに暗殺されましたが、いまなお伝通院内に墓碑が建立され供養されております。 このたび本会の事業として、この記念碑を建立し、永く歴史の時点を残すことに致しました。
文京歴史研究会 |
雑然と鷺はむれつゝおのがじし |
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あなやるせなき姿なりけり |
歌人、千樫山人、古泉千樫先生は明治19年(1886年)9月房総千葉県生れた。本名を幾太郎といい、左千夫の師風を墨守し、茂吉とともにアララギ派の代表歌人であった。昭和2年(1927年)8月11日、東京青山南町の家で惜しまれて病歿、享年42歳、すなわち、当傳通院の同家墓地に埋葬した。 |
先生には歌集として、自選歌集『川のほとり』・歌集『屋上の土』・同『青牛集』・『古泉千樫歌集』があり、また歌論集『随縁鈔』その他多くの編著がある。 その歌風、まことに清新・平明・純朴、常に独自の個性と詩情を湛えて、作品に新感覚と新個性と抒情の境地を展開した功績は、けだし偉大なものがある。 この鷺の歌は大正3年夏のころの作、19首からなる鷺の大連作の中の1首で、歌集『屋上の土』に収められているものである。氏の直筆から擇んでここに表彫した。
古泉千樫先生を憶う会 |
わかこゝろの林泉の |
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かへてはやくるなくしはらく |
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あるをあはれといはむ |
歌人、水町京子は明治24年高松市に生れた。佐賀県人。本名は甲斐みち。旧東京女子高等師範文化卒業。古泉千樫に師事、歿後は千樫の遺志により釈超空の指導をうけた。女流短歌誌「草の実」を創刊、また千樫門下による「青垣」に参加、昭和10年「遠つびと」を創刊、今日に至る。 歌集として『不知火』『水ゆく岸にて』『水町京子歌集』がある。大正6年より20余年、淑徳高女に在職、この境内は、若き日朝な夕なにあゆまれたゆかりの地である。此の碑の歌は、金閣寺炎上に際しての作。『水ゆく岸にて』所載。 かの林泉(シマ)のかの楓の木下みち業火の 舌がなめつくしける に続く1首である。 |
春いまだ |
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さわがしからぬ |
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空のいろに |
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辛夷の花は |
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白く咲きたり |
橋本徳壽は明治27年(1894年)神奈川県横浜市に生まれた。短歌は初め土岐哀果に学んだが、後に万葉集に傾倒し古泉千樫を師と仰いだ。昭和2年(1927年)、短歌結社「青垣会」を結成するに当たり、その原動力となって活躍した。千樫亡き後は、青垣会を60年間牽引すると共に、宮中歌会始の選者、明治記念綜合歌会の選者を務めるなど、大正から平成までの長きにわたり、歌壇に大きな足跡を遺した。 歌碑に刻まれた歌は、歌集『桃園』に収められており、春の到来を実感した喜びが、清楚な辛夷の花の開花にことよせて格調高く詠まれている。なお、橋本徳壽は我が国屈指の木造船技師でもあり、日本全国に赴き技術指導にあたった。平成元年(1989年)死去。 |
明治19年(1886年)5月13日、金沢市に生まれる。 昭和27年(1952年)、「渋柿」を主宰。 昭和39年(1964年)10月28日、松根東洋城は87歳で死去。 昭和43年(1978年)9月、渋柿同人句碑建立。 昭和58年(1983年)1月12日。没。 |
四月二十日 姉と一緒にまず丸ビルに立寄り句会場小石 川伝通院礫川会館へ。 |
葉桜や伝通院へ道ますぐ よるべなき道行春の人通り 人の死も今は遠くに春暮るゝ |