元文年間(1736〜41)開かれた町で、千駄木坂の下にあるので、駒込千駄木坂下町と名づけられた。明治44年、駒込坂下町と改めた。 千駄木坂は、坂上から東京湾の海が見えたから潮見坂、坂のそばに団子を売る茶店があった ので団子坂と呼ばれた。 団子坂は、明治時代菊人形で有名であった。
文京区 |
童女の手鞠唄にもうたわれた笠森おせんは、明和年間、錦絵の開祖といわれる鈴木春信の麗筆により、水茶屋の美しい茶汲女として江戸中に名を知られた。 おせんは春信の錦絵によって有名になり、春信はおせんによってその天分を発揮したといわれている。 春信碑の選文は笹川臨風、おせんの碑は永井荷風がこれを記している。
台東区 |
お仙は、笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、大正8年、2つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木春信」碑は、文学博士笹川臨風が撰し、題字は東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦の手になる。 荷風の撰文は、漢字仮名交じりの文語調である。 |
女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。今年都門の粋人、春信が忌日を選びて、こヽに阿仙の碑を建つ。 |
時恰大正己未夏六月 鰹のうまい頃 五大州は日本のことで、大正己未は大正8年にあたる。
台東区教育委員会 |
一昨日錦水にて臨風子にすゝめられ、餘儀なく笠森お仙碑文起草の事を約したれば、左の如き拙文を草して郵送す。 |
笠森阿仙碑文 女ならでは夜の明けぬ日の本の名物、五大洲に知れ渡るもの錦繪と吉原なり。笠森の茶屋かぎやの阿仙春信の錦繪に面影をとゞめて百五十有餘年、嬌名今に高し。本年都門の粹人春信が忌日を選びて阿仙の碑を建つ。時恰大正己未の年夏六月滅法鰹のうめい頃荷風小史識。 |
『斷腸亭日乘』(大正8年6月10日) |