下 町〜江戸川区
小松菜屋敷〜一茶の句碑〜
小松菜の一文束や今朝の霜
毎日新聞に「一茶の句碑を庭に 地元特産・小松菜の句刻む − 江戸川区の亀井千歩子さん」という記事が出ていたので、亀井千歩子さんに電話して句碑の写真を撮りに行った。 |
JR総武線新小岩から平和橋通りを行くと、バス停「江戸川高校前」の近くに香取神社がある。 |
文化9年(1812年)11月14日、一茶は江戸を引き上げる。 文化14年(1817年)6月27日、一茶は江戸を発ち、7月4日に柏原に帰着。これを最後に一茶は江戸を訪れることはなかった。 文政2年に一茶は江戸にいなかったが、『八番日記』他にも江戸のことを詠んだ句を残している。 |
水売のいまきた顔や愛宕山
『八番日記』(文政2年5月)
なでし子に二文が水を浴びせけり
『八番日記』(文政2年6月) |
十六日 午下刻雨 南風 小松菜の見事に生て蚊やり立
『文化句帖』(文化元年5月) |
小松川の地名にあやかる小松菜は、この付近の特産でした。かつて、武蔵国葛飾郡葛西領西小松川村と称したこの地の菜は、江戸初期”葛西菜”と呼ばれていました。口碑によると八代将軍徳川吉宗公は鷹狩りを好み、享保四年の遊猟の折鎮守香取社を御膳所としました。神主亀井和泉守が地元の青菜を入れた餅の清まし汁を差し上げたところ吉宗公は香味良い菜を喜ばれ、土地の名から「小松菜」と名付けられました。
「小松菜」は人気をよび江戸後期の俳人小林一茶も「小松菜の一文束や今朝の霜」と『八番日記』に詠んでいます。平成16年は、この地に生れ俳人であり香取社の神主を務めた亡父・亀井鳴瀬(悦造)の生誕百五年に当り、また俳人であり小松菜作りの名人だった母杉芽女(きよ)の没後十年になります。ここに一茶翁の句を刻みむ「小松菜ゆかり塚」としました。翁の句は一茶研究家小林計一郎氏の筆であります。 平成十六年六月
小松菜屋敷 亀井千歩子
小林計一郎氏は長野郷土史研究会会長。一茶研究家であるが、小林一茶の末裔というわけではないそうだ。 |