島根県指定史跡 |
津和野藩校養老館は天明6年(1786年)亀井八代藩主矩賢の創建にかかり、始めは城下、下中島の地に設けられたが、嘉永6年(1853年)の大火に焼失し、安政2年(1855年)改めてこの位置に建設された。元はこの建物の左には講堂・塾が続き左奥には弓砲術教場・職工場・弾薬蔵があった。現在残っている建物は門より左が剣術教場・居合柔術教場、右が槍術教場であり、正面の土蔵は御書物庫であった。代々の藩主特に十一代慈藍は文武の奨励に力をいれた。西周・森鴎外・山辺丈夫・小藤文次郎・福羽美静・高岡直吉・堀藤十郎ら全国に名を馳せた幾多の賢哲を育成した津和野藩校の跡として貴重な文化財である。
島根県教育委員会 津和野町教育委員会 |
大正11年(1922年)年六日朝、森鴎外(本名:森林太郎1862−1922)は親友の賀古鶴所を枕元に呼び寄せ、遺言を口述させました。 この遺言碑は、昭和46年(1971年)鴎外五十回忌記念事業として津和野先哲顕彰会が、鴎外が幼少期に学んだ藩校養老館の、この地に建立したものです。設計を東京都三鷹市禅林寺境内の森鴎外の遺言碑建設に携わった谷口吉郎博士に依頼、昭和48(1973年)11月30日に鴎外の三男・森類(るい)夫妻を迎えてこの碑の除幕式が行われました。 |
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ |
一切ノ秘密無ク交際シタル友ハ |
賀古鶴所君ナリコゝニ |
死ニ臨ンデ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス |
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事 |
件ナリ奈何ナル官権(憲)威力ト |
雖此ニ反抗スルヲ得ズト信ス |
余ハ石見ノ人森林太郎トシテ |
死セント欲ス宮内省陸軍省皆 |
縁故アレドモ生死別分ルゝ瞬間 |
アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス |
森林太郎トシテ死セントス |
墓ハ森林太郎墓ノ外一 |
字モホル可ラズ書ハ中村不折ニ |
委託シ宮内省陸軍省ノ栄典 |
ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続 |
ソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云 |
ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許 |
サス |
大正十一年七月六日 |
賀古鶴所 書 |
森林太郎 言 |
津和野 |
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道と流と人の行く鯉の行く | 十月十一日 |
鴎外ここに学びし養老館の古き門、の鯉 |
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