2019年島 根

森鴎外旧宅〜鴎外先生詩碑〜
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 津和野川に沿う道を歩いて、森鴎外の旧居へゆく。

 小さな屋敷であった。森家は十三代もつづいた藩医の家であり、父の静男がすでに蘭方医であったということが、鴎外を考える上で重要である。鴎外は八、九歳のころにすでに父からオランダ語を学んでいた。そとでは藩校養老館で漢学を学んだ。

 鴎外宅にきておどろくことは、西周という、鴎外とどこか似たところのある人物の旧居が、川一筋をへだてて隣同士になっているということである。どちらも藩医の家で、親戚であったが、周のほうがむろん鴎外よりずいぶん年上であった。

司馬遼太郎『街道をゆく』(長州路)

津和野町町田に森鴎外旧宅があるというので、行ってみた。


国指定文化財(史跡)森鴎外旧宅

 森鴎外(本名林太郎)は、文久2年(1862年)1月19日この家に生まれ、明治5年(1872年)に10才で上京するまでここで過ごしました。その当時の様子は作品「ヰタ・セクスアリス」の中にも描かれています。

 鴎外は、軍医総監陸軍省医務局長、帝室博物館総長兼兼図書頭になる一方、文学者としても活躍し、明治大正を代表する文豪として夏目漱石と並び称されています。死に臨んで「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言し、大正11年(1922年)7月9日60歳で永眠しました。

 建物は嘉永6年(1854年)に発生した大火の後に建てられたものと伝えられ、森家が東京へ移住した後、別の場所へ移築されましたが、昭和29年(1954年)鴎外三十三回忌を機に町へ寄付され、この場所へ戻されました。その後、昭和60年に大規模な保存修復を行い現在に至っています。また、庭先の詩碑は、鴎外の「扣鈕」の詩を佐藤春夫の筆により建立されたものです。

 平成7年(1995年)にはこの旧宅に隣接して森鴎外記念館が開館し、鴎外の生涯と功績を顕彰しています。

津和野町教育委員会

「鴎外先生詩碑」


南山の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕惜し

べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ 電燈あをき
店にて買ひぬ
はたとせまへに

えぽれつと かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女
はや老いにけん
死にもやしけん

はたとせの 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ

ますらをの 玉と碎けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕

右「うたかたより扣鈕」

森鴎外旧宅


 国指定史跡・森鴎外旧宅は、明治5年(1872年)に森家が上京する際、取引のあった薬種問屋の伊藤家(高津屋)へ譲られました。

 その後、一時ここから北へ約250メートルの場所に移築されましたが、昭和29年(1954年)、鴎外の33回忌に際し、伊藤家の七代目伊藤利兵衛氏から津和野町へ寄贈され、もとの屋敷内に再度移築されました。

旧宅内部


昭和41年(1966年)10月11日、荻原井泉水は鴎外生家を訪れている。

(鴎外生家)

コスモスは明治の花か黄金のぼたんまことに惜し


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