ここは西周が少年・青年期の4歳から25歳まで(1833〜1853)を過ごし、生涯の基礎を築いた屋敷である。西家は外科医として代々津和野藩に仕えていた。屋敷は東西約32m、南北約31m、面積約1,107uの敷地に主屋、土蔵、土塀、庭園を配置している。主屋は嘉永6年(1853年)4月の大火による焼失後の再建だが、土蔵は焼失をまぬがれ、周の勉強部屋と伝えられる1階の3畳間は当時のままである。また、全体にこの地方の小規模な武家屋敷の構えをよくとどめており、貴重な遺構となっている。 主屋は、木造平屋建、桁行11.8m、梁間9.7m。寄棟造、茅葺、各面の下屋は杉皮葺。大火の後、他の建物を移築改造したものと考えられている。土蔵は、切妻造、桟瓦葺き、桁行5.9m、梁間3.9m。 なお、東側土塀内側には、嘉永6年の大火にさらされたと推定される土塀の一部(表面に見られるヒビ割れ部分)を保存している。 |
明治三年に新政府につかえ、同五年に兵武省にも関係したころ、少年の鴎外が父にともなわれて上京し、周の家に寄寓し、やがて東京医学校に入学する。 周は言葉の創造者でもあった。かれは西洋語を翻訳してわれわれがいまつかっている日本語をつくることに大きな功があった。哲学、心理学、論理学の分野だけでなく、陸軍の用語も翻訳してどんどんあたらしい日本語をつくった。このあと鴎外も、陸軍の衛生方面にかぎっては多少そういう仕事をしたらしい。
司馬遼太郎『街道をゆく』(長州路) |
同じ年の十月頃、僕は本郷壱岐坂にあった、独逸語を教える私立学校にはいった。これはお父様が僕に鉱山学をさせようと思っていたからである。 向島からは遠くて通われないというので、その頃神田小川町に住まっておられた、お父様の先輩の東先生という方の内に置いて貰って、そこから通った。
「ヰタ・セクスアリス」 |