貞亨2年(1685年)5月、大淀三千風は出雲大社を訪れている。 |
貞亨二丑五月廿日。出雲大社。日御崎詣し。同く杵築。宿坊松林寺に歸り。當寺縁起眺望の一軸し侍れば住衲一詩をたまふ。 |
安永8年(1779年)3月23日、蝶夢は沂風を伴い出雲大社に参詣している。 |
廿三日、社人の案内にて御社にまうづ、此國の風土記に、八雲立と有しより、出雲とはよぶとか、その八雲山は社の後山也右に鶴山左に龜山あり、その八雲山ふところに宮柱ふとしく立しなり、地を杵築とは諸神地杵築玉ひて、宮を建しよりとぞ、神代記に高皇産靈尊、勅大己貴神曰、汝應住天日隅宮者以千尋栲繩結爲百二十紐其造宮之制者柱則高太板則廣厚、とあるごとく、材木なべてつぎはぎを用ず、ことごとく一木一枚なり神代には三十六丈なりしが、人の代となりて十六丈、今の世には八丈、床の高さ一丈二尺、巾六間四方に扉一口柱九本を以てたつ、檜皮をもつて葺き、千本かつほ木あり、普通の神社にたぐふべき所あらず、高樓のかたち希有の宮のかたち也、めぐりは瑞籬玉垣荒垣とて、三重にかこみ、其外觀祭樓廳屋拜殿等三ツ葉四ツ葉に作りみがゝれたり、かゝる波濤のすえに有べき結構にあらず、聞くよりは過てたふとく覺へけり、左に熊野川右に素鵞川流れて社をめぐる、誠に清地と神代よりいひつたへし事、いたづらならず、何事のおはしますとはしらず、六根清浄といふやうに、心すみぬ、法樂に |
大きなふくろをかたにかけ | だいこく様が来かかると |
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ここにいなばの白うさぎ | 皮をむかれて赤はだか |
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だいこく様はあわれがり | きれいな水に身をあらい |
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がまのほわたにくるまれと | よくよくおしえてやりました |
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だいこく様の言うとおり | きれいな水に身をあらい |
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がまのほわたにくるまれば | うさぎはもとの白うさぎ |
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だいこく様はだれだろう | 大国主のみこととて |
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国を開きて世の人を | たすけなされた神様よ |
時に海を照して依り来る神あり |
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吾在るに由りての故に汝その國 |
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造りの大業を建つるを得たり |
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吾は汝が幸魂奇魂なり |
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大國主神これ吾が幸魂奇魂なり |
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けりと知りぬ |
古事記また日本書紀に述べるところであります。出雲大社の御祭神大國主大神はこの幸魂奇魂の”おかげ”をいただいて神性を養われ「ムスビの大神」となられました。生きとし生けるものすべてが幸福になる「縁」を結ぶ”えんむすびの神”と慕われるゆえんであります。 およそ人が人であるということは幸魂奇魂というムスビの”みたま”をわが身にいただいて霊止すなわち人として生かされているからであります。大神からいただいたこの”いのち”を感謝して大切に正しくこれを生かしきりましょう。 出雲大社ではこの御神教にちなんで さきみたま くしみたま まもりたまひ さきはへたまへ と唱して御神縁を祈念いたします。 この「ムスビの御神様」は大國主大神が有難く「幸魂奇魂」を拝載される由縁を象徴しております。 |
ようこそのお参りでございます。 平成20年4月よりはじまりました、60年に1度の出雲大社「平成の大遷宮」は、お蔭さまをもちまして御本殿をはじめ境内境外の御社殿の御修造遷宮等、当初予定の事業は平成28年3月をもって、ほぼ完了いたしました。 |
御祭神大國主大神のお鎮まりになる御本殿の正面は南向きですが殿内の御神座は西向きとなっています。 昔より御参拝の皆様は大神様に向い合い御神座正面から拝しております。 先づ御本殿正面で御拝礼の後瑞垣に沿って摂末社を参拝され、御神座正面に当たる此の場所より再度心を込めて拝礼なさいます。 どうぞ御拝礼下さいませ。
出雲大社 |
島根県の国宝建造物は他に松江市大庭町の神魂神社本殿、松江市殿町の松江城がある。 |
明治43年(1910年)2月3日、河東碧梧桐は出雲大社に参拝した。 |
二月三日。曇。 千家宮司の命に依る丁重な案内を得て、大社に参拝した。宝庫に納めてあった神宝の一部も態々予のために陳列された。神宝の中に、婦女用具たる櫛笥があった。その由来を聞くと、神殿の改築―約六十年ごと―に際して同時に作られるもので、古きは高倉天皇安元々年に調製した螺鈿秋野の景の蒔絵を始めとして、その数もすでに一つ二つではないとのことである。大社は申すまでもなく、大国主命一柱の鎮まりましますのであるけれども、仄(ほのか)に御二柱のことを想い浮べて、かく調度に御櫛笥を供えまつるとのことであった。大社の由来、神殿の建築等について、聞くべき観るべきものは多々あったけれども、この櫛笥の由来に、天日の赫々たる碧空に一片の雲翳を点したような、異彩を感ずるのであった。 御櫛笥あるに寒梅匂ふらん |
大正2年(1914年)4月17日、長塚節は出雲大社に参詣した。 |
十七日、出雲の杵築にいたり大社に賽す、其 の本殿の構造、簡易にして素朴なれどもしか もこれを仰ぐに、彼の大國主の天の瓊矛を杖 いて草昧の民の上に君臨せる俤を只今目前に みるのおもひあり 久方の天が下には言絶えて嘆きたふとび誰かあふがざらむ
「鍼の如く 五」 |
昭和5年(1930年)5月27日、与謝野鉄幹・晶子夫妻は出雲大社に参拝している。 |
おほなむち慰めまつる御神楽もかしこかりける大出雲振り 八百よろづ大國ぬしのおん許へつどはん神の草まくら殿 神巫(かんなぎ)の祓ひつくすに惜しきこと社出でなばこころに歸れ
「落葉に坐す」 |
昭和7年(1932年)10月8日、星野立子は出雲大社に参拝。 |
翌八日。秋晴の湖畔を沿ひはしる電車に乗つて出雲大 社に参る。窓よりのけしき。 張物をしてをり柳散る下に 秋晴や十六禿を眺めつゝ 秋晴の電車を降りて大社に向ふ。神さびたよいお社。 しづの女さんが晴子のために良縁がありますやうにと祈 られる。 神苑の裏にまはれば秋の蝶
「玉藻俳話」 |
昭和37年(1962年)6月6日、水原秋桜子は日御碕の帰途、出雲大社に参拝している。 |
帰途、出雲大社に参拝した。神さびた本殿のうしろに大和絵に描いたような山が立っている。拝殿は焼失したあと、新しく造営されたものだが、柱も棟木も太く、それに大きな注連が張られて、いかにも大国主命を祭神とする社殿という感じであった。この大社のあたり、ちょうど田植のさかりで、瑞々しい苗代や、早苗を積んだ手押車をしばしば見かけた。この辺は冬季につよい風が吹くと見えて、家の周囲を松で囲んであり、これを築地松というのだそうであるが、田植の笠がその松の下にひと並びになって、植えいそいでいるような景も見られた。 早苗籠置くや出雲の築地松
「麦秋紀行」 |