〇三日 天気吉。新庄ヲ立。一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル。
一リ半、古口ヘ舟ツクル。合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。
『曽良随行日記』 |
岩間乙二は古口に泊まっている。
板敷山の麓最上川の岸頭に。家居せる古口にやどる。
|
おろおろし闇の皐月の初月夜
|
正岡子規の句碑があった。

朝霧や船頭うたふ最上川
昭和31年(1956年)9月19日、建立。
明治26年(1893年)8月8日、子規は大石田から最上川を下り、古口の旅店に投じた。
|
明治40年(1907年)10月12日、河東碧梧桐は本合海から最上川を下った。
|
古口といふ子規子がむさき宿と記せし処なり
|
宿帳に大字落々と記す秋
|
古口より下流は所謂最上峡と呼ばれる峡谷で陸路がなく、全て最上川舟運に頼らねばならなかったそうだ。
|
大正2年(1913年)、陸羽西線新庄古口間開通、翌3年酒田迄開通。
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、古口の宿に泊まっている。
|
古口と云ふ小驛で、新庄酒田間の夜汽車を降り、此邊に宿屋はありませんかと聞けば、驛長さんが、わざわざ出て来て、あれを突き當つて曲つて、それから左側に、かめ屋と教えて呉れた、突き當りは、雲すきに山の形が見えるばかり、
|
昭和5年(1930年)7月24日、斎藤茂吉は陸羽西線で古口を通る。
|
芭蕉も元禄二年このあたり舟にて過ぎけむか
古口のほとりを過ぎてまのあたり親しくもあるか夏の最上川
『たかはら』 |
昭和36年(1961年)6月、山口誓子は古口の河畔で子規の句碑を見ている。
|
古口の河畔には子規の句碑がある。
朝霧や船頭うたふ最上川
「はて知らずの記」に載っていない。句集「寒山落木」にも載っていない。
『句碑をたずねて』(奥の細道) |
『寒山落木 巻三』(明治二十九年 秋)所収の句である。
蔵王温泉に戻る。
『はて知らずの記』に戻る